大量に印刷される(生産される)イメージにインスパイヤーされたものは、完成度を増すにつれおのずとそのような方向へ回帰していく。僕にとっての本やTシャツやグッズがそうだ。気がつけば、それは自己を離れて大衆の中に存在している。飽きれば捨てられることもあるし、ずっと大切にされることもある。金になるとわかればあっさり売られることもあるし、価値づけが所有欲を満足させることもある。
僕を形作っている半分はそのようなもので出来ている。そして残りの半分はそのアンチであり、対極にある。
70年代、ビッグなミュージシャンたちの降り注ぐようなプロモーションに飲み込まれていくオーディエンス。ポップになり巨大化していく音楽産業に嫌気を覚えていった僕は、マイナーなレコードレーベルがノンプロモーションでリリースする音楽に興味を持った。それらの音楽は、良ければ口コミで伝わっていく。それは手作りの土臭いものだったり、時代を超えて存在するルーツ・ミュージックだったりした。世間の流行とはかけ離れてはいたが、人間的な香りがした。過度にプロデュースされたものにはない、素朴で真摯なものだ。僕が集めていたレコードの大半はラジオでは流れないものだった。宣伝されるものでもないから、こちらから積極的に探さなくてはいけなかった。レコード屋さんに通って試聴させてもらったり、その手の情報が載っている売れそうにもない雑誌を探した。その頃にはロックスターがカラーページでドバッと載ってるような雑誌には見向きもしなくなっていた・・・ことはないな、立ち読みはしていた。広告に毎度のことのように顔を出す「何年にひとりの逸材!とか天才!」とかいう言葉を見つけると妙に悲しくなった。そんなことは、その何年か経ってみてからじゃなきゃわからないのにね。
商業主義に飲み込まれて加速度的にポップ化していく美術界に対して僕は否定的だ。しかし、創造する側の価値観も、取り巻く環境によって確実に変わっていくのも事実だろう。
何も考えず「自分の絵がグッズになる!自分でも欲しい!」と、安易にOKした製品たちについて経済的な質問を受ける時、心は無性に虚しくなっていく。絵の内容についてではなく、その価格や売れ行きについての会話もそうだ。とにかく、じっくりと向き合える絵や、感じられるドローイングを描いていきたい。
90年代に描いた絵には、なにかしら魔法がかかっていた気がする。観る側が一対一で会話できるような魔法。その絵は今に比べると稚拙で出来不出来が激しかった。でも個人に訴えかけるものが今より確かに大きかったと思う。70年代、イギリスにHeronというフォーク・バンドがいた。
1stアルバムはスタジオではなく野外で録音された。曲の合間には鳥のさえずりが聞こえて、まるで外にいて木漏れ日の中で寝転びながら聴いてるようだった。そのアルバムには確実に魔法がかかっていた。
彼らの2ndも素晴らしい出来ではあったが、その魔法はかけられてはいなかった・・・。
僕は再び自分の描く絵に魔法をかけられるだろうか。見た目の完成度や専門家の評価や売れるとか売れないとかではなく、原石が時おり放つ一瞬の輝きにも似たもの。人生の半分を折り返して、再びあの場所へ歩いていけるのだろうか。
・・・でも、やっぱどうでもいいや~♪