• あしたのジョー

    自分の行っている表現方法は、技術的にはアカデミズムの中で学んだ基本的な物に支えられている。アカデミズムの正式な定義は知らないが、コンサバティブなものではなく、自由を見つけ出すための基本だと思っている。その入り口は狭く、奥行きがあり、気の遠くなるほど進めば大きな広場に繋がっている。僕は、その広場にたどり着きたくて、アカデミズムの破壊と再構築を繰り返している気がする。破壊と再構築をすればするほど、裾野は広がり、さらに高い山を築くことができる。裾野が広くなれば、かつての小さな山の形に似た大きな山にもなるし、連山を作ることも出来るかもしれない。小さな裾野を持つ山に高さを求めるならば、それは不安定であり、高さの限界はすでに見えているはずだ。そんな小さな山は、あたりを見渡せばいたるところに乱立していて、美大生時代の僕だったら素敵に羨ましく見えただろうし、裾野の広い高い山や山脈に繋がっているものだとも思っただろう。

    成功したイメージの延長を求めること、限界はその中にある。それが小さな山だ。限界は、小さな成功の中にすでにあるのだ。破壊して再構築するということは、スタイルを変えていくということでもない。むしろ、同じスタイルでありながらそれを出来ることが自分の理想だ。例えて言えば、僕はニール・ヤングが歌う姿にそういうものを見ているし、変わることのない己の世界観、何を見つめ、何を作っていくのかということは、自分にとってとても大切なことだ。そこにはスタイルやバリエーションを変えていく中で描かれる絵には表れないものがある。それが良いのか悪いのかはどうでもよくて、ガードを固めずにひたすら打ちまくる『あしたのジョー』のようでもあり、僕の好きな道なのだ。