• 幸せな未来に向かって、生きて行く

    僕の通った小学校は、古くからの街のはずれにあった。校門を出て右へ行けば、畑や原っぱに家が点在していて、左へ行けば、家々が軒を連ねる住宅地があり、国立大学があって、繁華街へと続いていた。その小学校は、僕が生まれて4年後に開校した新しい小学校だったけれども、入学した時は新しい校舎は1棟だけで、ほとんどは古い木造校舎を使っていた。子供たちにとって、なんだか大きく感じる木造校舎は、僕が生まれる14年前までは旧日本軍の兵舎だった。1棟だけの鉄筋コンクリートの新校舎は、子供に合わせた空間で明るくきれいだったが、木造校舎は古くて薄暗く、大人に合わせた廊下の長さは、僕らにとって果てしない不安を誘うものだった。

    中学校は道を挟んで小学校の目の前にあった。体育館以外は、やはり元兵舎が使われていた。2階のどこかの教室の床に飴玉くらいの穴が開いていて、そこから下の教室を覗くことができた。その穴は、兵舎時代に誰かが銃を撃って開けてしまったものだと聞かされて、どんな状況で発砲されたのかを、授業中に窓の外を眺めながら夢想した。実際に穴が開いていたものだから、それはそれでリアルであり、胸がどきどきしたものだった。

    第2次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争……いろんな呼び方があるけれども、戦争と言えば、僕が生まれる14年前に終わった、その戦争を意味していた。その戦争に日本は負け、アメリカ軍が進駐してきて、付け焼刃のような民主主義政治がはじまった。その後の日本は、朝鮮戦争でのアメリカ軍への物資供給基地としての特需を経験する。関東や関西の大都市や工業地帯周辺から、その恩恵にあずかるように日本は急発展していくのだ。けれども、僕の住む北国はのんびりしていたように思う。旧日本軍の兵舎を使った校舎や、廃墟となったかつての弾薬庫や武器倉庫が放課後の遊び場だった。そんな感じで、間接的に戦争はまだ身近にあったのかもしれない。父母が共働きで誰もいない空っぽの家に帰って、ラジオのスイッチをひねり、在日本軍用の放送にチューニングを合わせれば、ポップでキャッチーな歌声が部屋に流れ出すのだった。

    中学を卒業する頃には、アメリカゆずりのサブカルチャーに夢中になっていた。そこには、ベトナム戦争に全力を傾けていた当時のアメリカ政府の首をしめるように、アメリカ国内から反戦を叫ぶ歌があった。爆弾や大砲の音に、ロックの轟音や心に響く歌詞で対抗するミュージシャンたちがいた。プラカードを掲げてデモ行進する若者たちがいた。そこから時間を逆行するように、人権運動やワシントン大行進という史実に出会ったりもした。

    幼い頃の生活環境や夢中になったロックミュージック、自分で調べたいろんな自象。自分が描いた反体制的に見えるドローイングは、そんなレイヤーの単体であり複合体だと思っている。1枚では言い表せないことも、数枚、数十枚とそろっていくと、急に力強く主張し出す。似たような想いを共有する人々は、声をあげることで隣人の存在を知ることもあるだろう。幸せな未来に向かって、生きていくのだ!

    『奈良美智 NO WAR!』
    美術出版社 2014年