• 物心つく頃から・・・

    自分はけっこう覚えてることが多くて幸せな気がしてる。

    景色や音や間取りや事件・・・
    保育園の靴箱のディティールが思い出せることが嬉しい。

    夢に出てくるように、記憶の引き出しのどこかに、画像として残ってるんだなぁ。
    脳ってスゴイね!

    しっかし、あの頃の保育園はボロっちいなぁ~。
    翌年に新園舎が出来て、引っ越したんだっけ。

    孤児院を併設してた保育園だった。
    花園保育園は、僕が生まれる6年前の昭和28年に開園した。
    たぶん、旧日本軍の宿舎を改装して始まったんだと思う。
    元々は明治時代に個人によって設立された孤児院が母体だ。
    老人救護院や精神病院も併設していたのを考えると、よほどの慈善家だったのだろう。
    老人救護院は、僕が小学校に入るころには県内初の養護老人ホームとなる。

    ネットで調べたら佐々木五三郎という人が、明治35年に創設した東北育児院が始まりだった。

    夕方5時になると鐘が鳴って、子供心にもなんだかいい感じだった・・・けれど、
    みんな、お母さんたちが迎えに来るのだけど、自分は一人で帰ってたなぁ。
    母が働いてたから仕方ないけれど、誰もいない家には帰らず、
    大きな通り沿いにある、遠い親戚の造花屋さんのとこに帰ってた。
    そこで時間をつぶして、夕方遅くに母が迎えに来るというパターンだった。

    造花屋さんをやってる伯父さんは片足が悪くて、外に出る時はいつも松葉杖だった。
    伯母さんは下半身不随で、いつも畳の上をイザって移動してたけど、なんでも出来た。
    子供がいないのか、あるいは自立してしまったのか、二人きりで住んでいた。
    だからかどうかわからないけれども、ふたりは小さい自分にとても優しくて、
    僕は伯父さんの仕事を観ているのが好きで、いつもおとなしくずっと観ていた。
    茶碗一杯ほどのご飯を、丸い棒を使って練り、糊を作る手際の良さもはっきりと思い出せる。
    そうだ、伯父さんの隣の家には、自分と同じ年の男の子がいたけれども、
    小学校へ入学する前に交通事故で亡くなったのを思い出した・・・。
    通りに面したその家の縁側から、その子の写真が飾られてる仏壇が見えて、
    僕はいつも精一杯に屈んで通り過ぎていた。
    それは、写真のその子と目が合うからではなく、
    彼の家の人に見られることが、悪いことのように思えたからだった。

    造花屋の伯父さんを、僕は『ハッコのオド』と呼んでいた。
    あ、ということは、ハッコのお父さんなのか!

    竹ひごや綺麗な紙を使って、仏様の前に供える造花を作っていくオドはカッコ良かった。
    夏のネプタ祭りに備えて、金魚ネプタも作っていたし、凧絵も描いてた。
    親戚中を見渡しても、一番クリエイティヴな人だったなぁ・・・

    松葉杖を抱えながら、片足で自転車を漕いでるハッコのオドはカッコ良かった。

    小学校に入ると、オドのところへは寄らずに帰るようになってしまった。
    4年生の夏休み、宿題の工作で小さなネプタを作ることにして、オドに作リ方を聞きに行ったことがあった。
    久しぶりに会ったオドは、僕に作らせず、勝手に全部作ってしまって、僕を困らせた。

    いろんな場面、そのディティールさえ、僕はまだ鮮明に覚えてる。
    自分の家の間取りや、畳の擦り切れた部分さえ思い出せる。
    眼をつぶれば、真夜中、トイレに行くときに入れた電気のスイッチの位置さえわかるのだ。

    それから、家の庭にあったブドウの木。
    木の根元に夜店で買った亀をつないでた。
    イチゴも作ったし、鶏も飼った。
    隣の家には羊がいたし、馬がいる家もあった。
    平屋の赤い屋根に上って、遠くに花火大会を観た。
    遠い遠い川にかかる橋の欄干の灯りも見えた。
    夜空に広がる星々がきれいだった。

    そんな丘の上の一軒家。
    その一軒家は小学校高学年の頃に増築して2階建てになった。
    周りには家が建ち並んで、いっぱしの住宅街になってしまった。
    そして、僕がドイツにいる間に建て直しをして、僕の部屋は消えた。
    ハッコのオドは、僕が家を離れてる間に亡くなってしまってた。
    あの頃の家はもちろん、伯父さんたちも、この世には存在してはいないんだな。

    それでも、僕は、まだまだいろんなことを思い出せている。
    それは、決して感傷的な気持なんかではなくて、
    そんな思い出とずっと一緒に生きていて、これからもそうなんだろうっていうことだ。

    50歳を過ぎて、人生を折り返し、未来よりも過去のほうが多い状況。
    過去を大切にして、まだまだ思い出せてないことを思い出したい。
    未来だって、思い出すために存在している気がしてくる。
    良い未来を作りたい。

    たとえば30年後に、今のこのスタジオのディティールを日記に書くために、
    今聴いてる曲を、間違いなく思い出すために、今日を生きよう!

    毎日、悔い無く生きよう!

    空の上にいる、優しかった伯父さんに伯母さんたち、お爺さんにお婆さん、
    まだまだ生きていくだろう俺は、頑張ります!

    それから、死ぬまで反抗し続けてきて、飛行機の時間をわざと遅らせて、
    火葬の時間は元より、葬式にまで遅刻して行った自分だけど、
    思い出すほどに、父には愛されていたのだと感じます。

    頑張ろう!

    この、頑張ろう!って言葉。
    頑張るのが当たり前だと思ってた頃は、絶対に使わなかったし、人から言われるのも嫌だった。
    でも、2011年の震災の後、当たり前に頑張ることが難しくなってきて、今は素直に言えるようになった。

    頑張ろう!

    PS.庭にあったブドウの木は、絶対にスチューベン!