• 10 (11) songs for Music Portrait NHK E-テレ

    NHK Eテレの番組のために選んだ曲たちの解説!

    M1 ♪ 太陽野郎 / 寺内タケシとバニーズ 小学2年生

    歌詞が好きだった。当時意識はしていなかったけれども、耳に残るギターの音色にもやられたと思う。
    自分と同じような両親共働きの友だちと、冒険や青春っぽい友情に憧れて、小学2年の時に電車に乗って終点まで行ってみる。すでに暗くなった帰りの電車の中で、親切すぎるおばさんに捕まり、警察を呼ばれて補導された。
    なにかしら外に飛び出し自由になることに憧れ始め、AMラジオから流れる米軍放送の意味すら分からないアメリカの歌が魅力的に感じられて、いつも聴いていた。自分の中のポジティヴな面は、幼年期に聴いたこの曲に由来している気がする。

    M2 ①♪ スターマン / David Bowie 中学1年生

    Ziggy Stardustという宇宙からやってきた架空のシンガーがSpiders from Marsというバックバンドを従えて発表したDavid Bowieのコンセプトアルバム。5年後に世界は消滅するというコンセプトの元、子供たちの味方Ziggyが歌う。このアルバムの曲はもちろんジャケットも空想を掻き立てるに充分で、David Bowieを代表とする当時のグラム・ロックのミュージシャンたちのヴィジュアルにも衝撃を受けた。また、グラム・ロックに限らず、アメリカ、イギリスのロックを幅広く聞き始め、メインのシンガーだけではなく、バックミュージシャンたちにも興味を持って、好きなバックミュージシャンが参加しているアルバムを探して買ったりし始めた。参考書を買うと嘘をついてレコードばかり買っていた。その嘘がバレないようにテストでは良い点をとるように勉強もした。

    M2 ②♪ Blitz Krieg Bop / Ramones 高校2年生

    中学の時は勉強しないでも成績が良かったが、高校は昔からの進学校。あっという間に勉強は出来なくなり劣等生に。しかし、ロック喫茶やその手のイベントなどでバイトするようになり、参考書を買うという嘘をつかずにお金を得て、さらにレコードを集め出す。かなりマニアックな集め方をするようになって、中学の先輩とガレージを改造したロック喫茶を手作りして、レコードブースでDJをする。そこに集う大学生たちにロックを教える側の立場となった。当時のアメリカのヒッピーカルチャーに触れ、年齢の割には大人っぽく、ヒッピーに憧れたりもしたが、RAMONESのデビューアルバムを聴いて、体に衝撃が走った。それは頭で考えるよりも、10代の衝動のままに体を動かし何かに向かって拳を振り上げるというもので、The Clashの登場により社会に向けての反発、反体制的な歌に興味が移っていった。

    M3 ♪ ユニバーサル・ソルジャー / Donovan 20才

    高校卒業後、上京して、古いもの新しいもの、いろいろとレコードを集め続け、ライブに通った。1980年、20歳の時に武蔵美2年次用の学費を使ってヨーロッパへ3か月の一人旅に出る。ヒッピーが集まるようなフラワームーブメント的な共同体の名残のある宿では、60~70年代のサブカルチャー的な音楽知識が役に立ち、その手の人々と仲良くなる。また街角にたむろするパンクスたちとも、パンクミュージックの知識を共有できて仲良くなれた。美術館での作品鑑賞よりも街や宿での出会いが楽しく、自分を育ててくれたと思う。美術に対しては何も考えなかったが、音楽や小説、映画などの同時代的な文化が、言葉を超えて共有でき、共感できることを体感した。ヒッピーの生き残りのような人たちに会っても、温かく迎えてくれて、その場にあるレコードの中から、この曲を選んでかけたことがある。ベトナム戦争への反戦歌だが、ベトナムにこだわらず戦争という人間同士の戦いの矛盾とやるせなさを歌っている。

    M4 ♪ Radical real rock / The star club 24才

    武蔵美の学費を使い込んだことを隠すために、学費の安い公立大学を受験して合格し、それ以降は仕送りを断りバイトで生活し始める。知識を生かしてレコード屋、造園屋などでバイトする。大学の後半は予備校講師のバイトをするが、バイト代は高給だった。しかしながら、生徒たちに先生として理想を語ることで、逆に自分を見直すことになり、『本当に学ばなければならないのは自分だ』と痛感するようになって、制作にも真面目になるが、海外で学んでみたいという野望が生まれる。当時は主に海外の音楽を聴いていたが、日本のパンクにも触れるようになり、名古屋のパンクバンドのライブに通う。同世代である名古屋出身のThe STAR CLUBの曲には共感するところが多く、以後多くのドローイングに歌詞の引用をするようになる。しかしながら作家として生きていこうという姿勢はまだ持てていなかった。

    M5 ♪ für immer Punk / Die Goldenen Zitoronen ドイツ時代

    入学試験を受け、運よくデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学できた。デュッセルドルフはかつてジャーマン・ニュー・ウェイヴで有名な街で、KraftwerkやDer Plan、DAFが演奏していたライブハウスRatingerhofに通い、またドイツのパンク・シーンにも触れる。この頃、インディーズバンド『Birdy Num Nums』に頼まれて、レコードジャケットに絵を提供する。言葉の不自由さは、ライブで空間を共有することや、音楽やサブカルチャーという共通項でかなり克服していたと思う。そして、アカデミーのみんなが自分の作品を教室(アトリエ)に観に来るようになり、作品を通して自分の言いたいことが伝わっているのだという実感も持ち始める。この頃は、パンクよりもポスト・パンク、グランジ、6、70年代のロックから影響を受けたようなロックを主に聴いていたが、お気に入りのバンドはハンブルク出身のパンクバンド『Die Goldenen Zitoronen』だった。『fur immer Punk = 永遠にパンク』という曲は、途中にUKパンクの名曲、Sham69の『If the kids are united』 の一節が挿入されている。ドイツの有名画廊で個展を行うようになり、友人たちはみんな喜んでくれた。国や団体の奨学金でやってくる普通の留学生とは違い、1年生から彼らと一緒だった自分は、幸運にも国や文化を背負ったようなプレッシャーやエリート意識が無かったため(?)か、みんなの代表的に思われていた節がある(後に「きみの活躍は僕らの誇りだ」と言われました~)。異国で孤独にいることで、幼児期の感性が取り戻され、また言葉を超えた共通言語としての音楽などを美術表現にも意識するようになったと思う。が、ここまでで重要なのは、すべて自ら発見したことではなく、偶然にも良い出会いや環境がそろっていたからです。自分の気持ちは、いつも、いつまでも、子供の時のまま、上京した時のまま、ヨーロッパを放浪した時のままであったと思う。ヨーロッパの宿や街角で出会ったように、学校でも友だちが出来、得意な絵で、分かり合える仲間とコミュニケーションしていたと思います。

    M6 ♪ GT400 / Thee Michelle gun Elephant 日本へ帰国後

    日本では(いつの時も新しいものに慎重な)美術関係者よりも、ファッション雑誌や総合文化雑誌などでの紹介のほうが早く、また自分の作品が持つ親しみやすくわかりやすいイメージも相まって、早くから一般に浸透した感がある。それはまた、表層を見ることに終始し、深く観ないというマイナスの側面も生んだと思う。帰国後、美術作家というよりもミュージシャンや芸能人のような扱いをされる時もあり、ファン層だけではなくメディアに対しても戸惑いがあった。そんな時、「そんなことはもうどうでもいいや!」と思っていたが、この歌が発表された時、大声で一緒に歌う自分がいた。それでも展覧会の会場や美術好きの集まるところ以外で声をかけられることは少なく、自由に暮らし制作していたと思う。しかし、この頃から制作や見せることに対する意識が少しずつ高くなり、多少の責任感が生まれ始めたと思う。2000年秋に帰国後は福生の米軍基地の滑走路に隣接する小さな倉庫を借りて(都心に比べて家賃が安かったのと、ステレオのヴォリュームを上げても大丈夫だったため)、そこで生活しながら制作していた。

    M7 ♪ Ronnie Lane and The Band Slim Chance / The Poacher A to Z後
      
    ひとりで制作してきたが、自然な出会いというよりは人間関係で紹介される人や仕事で出会う人が多くなり始め、その流れでコラボレーションなどをするようになっていった。同じ目標に向かってする協働作業は楽しく、完成した時の喜びも倍増して、学園祭のような時期だったと回想する。ただ、その楽しさや協働制作の影で、自分本来の制作意識に曇りが生じ始めたことも確かだったが、みんなでワイワイやる中で、真剣に考えることはなかった。それでも、以前から誘われていた信楽(陶芸の森美術館)での陶器作品のレジデンス制作に行き、日々、ひとりで土に向うことがイコール自分と向かい合う、再び(ドイツでの体験のように)自分を見つめなおすことに繋がったのは、何かしら生き延びようとする野生の本能の成せたことだと今は思う。

    これらの体験、音楽や出会いや制作や、それらにまつわる思考は実に複雑な積層をなしている。そのような事象は、自分の作品の表層からは伝わりにくいだろうし、簡単に伝わって欲しくないという想いもある。パーティバンドと呼ばれた70年代当時の大人気バンドFacesを自ら脱退したRonnie Laneが個に立ち返り、Facesの代名詞である『酒好きのバカ騒ぎロック』から自分が本来やりたかったものを作ったのがアルバムAnymore for Anymore。その中からの1曲。この時のロニーのバンド『Slim Chance = わずかなチャンス』という名前も好きだった。

    M8 ♪ universal soldier / first aid kit 震災後

    震災後は、10代の頃に聴いたマイナーレーベルのフォークやフォークロック、イギリスのトラッドなど語りかけるような優しい音楽や、人々の暮らしの中にあるような伝統的な音楽や、そのロックとしての変化形のようなものばかり聴いていた。それは、grafとの協働作業に区切りをつけ、再び自分を見つめなおす時期から聴きなおしていた、10代の頃パンクに出会う以前に聴いていた曲たちの延長線上にあるようなものであった。特にスウェーデンの姉妹デュオFirst Aid Kitが歌う(今の世界状況に合わせて歌詞が変わっている部分があるが)かつて好んで聴いていたDonovanの曲universal soldierのカバーは心に沁みた。

    M9 ♪ World Top Dreamer / 八田ケンヂ 最近

    僕はいつまでも10代、20代、30代、40代の頃の自分であり続けたい。先生扱いされるのも嫌だし、流行りものとも、すでに終わった流行とも捉えられたくない。今、現在進行形で生きているこの最中に、たとえそれが良いものであるとしても断定的な評価を下されるのも嫌だ。正直言うと、人気者になったような現在の状況よりは、無名で何の発表の予定もないままに時間を気にすることなく毎日絵を描いていたドイツ時代に戻りたいとさえ思っている。しかし、時間は進んでいくものだ。駆け抜けるように過ぎ去ってしまった時間に漂っている虚無感は、実感を伴わずにハイスピードで走ってきた自分にも原因があるのだろう。いろいろな素材を使うことで、表現することの基本に立ち返ろうとしている自分がいる。その気持ちは、美術だとか芸術だとか定義できるようなものに立脚してはいない。子供の頃からの、何かしらから自由になりたいと夢見ている気持ちの延長線上にあるものなのだ。だから、何度失敗しようとも無視されようとも否定されようとも、今までしてきたように絵を描き生きていくつもりだ。この曲は10代で日本のビートパンクの旗手のごとくデヴューして、当時は圧倒的な人気を誇ったKenzi & the tripsのKenziこと八田ケンヂが、低迷を続ける中で人生を振り返りながらも再び前を向き、変わらない気持ちを再確認した歌だ。僕はこの歌に自分を重ねる。そうしていると、自然と力が湧き上がってくるのを感じる。
        

    M10 ♪ voyage of the moon / Mary Hopkin 人生最後に聴く歌

    70年代、人気絶頂期のドノヴァンが、あまりにも拡大されてしまったファン層や音楽業界から離れ、小さな島に移住して作ったアルバム『HMS Donovan』というアルバムに収められている曲。元々はビートルズが作ったレコードレーベル『アップル』からリリースされる最初のシンガー、後にアップルの歌姫と呼ばれるMary Hopkinのためにドノヴァンは作った。さすがに歌を提供されたMary Hopkinが歌うこの曲は素晴らしく、小学5年生の頃に聴いて以来頭から離れないでいる。自分がこの世を去る時は、やっぱり夜がいい。できれば静まり返った深夜、満月の夜に旅立っていきたい。

    その後、大成功をおさめたメリー・ホプキンであったが、商業主義的なアップル・レコードを去り、自身の母語であるウェールズ語で歌い始める。それは、ヒットするために書かれたものでも、プロモーションを必要とするものでもなく、自然の中から静かに語りかけるような、心温まるフォークソングであった。