最近、よく思う。
自分が子供の頃に聴いていた歌なんかのこと。
小学校の頃は、レコードなんて数枚しか買わなかった。
つか、買えなかった、のほうが正しいか。
お年玉をもらった正月明け、レコード屋さんに走った。
中学生になった頃から、とにかくおこずかいを貯めてはレコード買ってた。
高校生になってからは、参考書代やらなんやらもレコードにつぎ込んだ。
喫茶店でバイトして、レコードばっかり買ってた。
映画も観たが、映画館の息子から招待券もらって観てた。
ライブのチケットをさばいては、タダでライブも観てた。
勉強はしなかったが、遊びには熱心だった。
あの頃から少しづつ増えていったレコードたち。
気が付くと、おそろしい数になっていた。
たとえば今、CDラックに目をやると、ものすごい数のCDもあるけれど。
レコード、ってのは特別なんだ。
最近、音楽関係の番組に呼ばれたりするようになった。
たくさん聴いてきた音楽たちが、自分を助けてくれている。
中学の時からずっと聴き続けてきたレコードが、今の時代でまた歌う。
途方もない時間をレコードと共に過ごしてきた。
それは自分にとっての勉強でもあったのだと思う。
絵や写真や、創作に関わることすべてに、その時間の蓄積が影響している。
影響している、というよりは、助けてくれる、手を貸してくれる、だな。
子供の頃から、自分で勉強してきたってことだ。
学校で習ったことなんかじゃなくて、ひとりで自然に学んだことだ。
それが、自分の表現に幅を与えてくれていると思うのだ。
幅、というか・・・やっぱ幅か・・・。
美術を勉強するようになってから習うものは、大体みんな同じだ。
もしかしたら感性さえ、学校で習うものになってるのかもしれない。
僕は、子供の頃から音楽が傍にあってくれて、一緒に成長した。
それはとても幸運なことだった、と思ったりもする。
でも、創作活動をしている誰だって、そういう経験はしている。
自分は、小さい頃からの自分史を、創作に入れ込むことが出来た。
そうなんだ、創作に役立てられている、っとことが幸運なんだ。
今、庭の手入れをしたり、木々を育てたりしている。
制作そのものは以前ほど大切に感じられなくなった。
旅に出たり、森を作ろうとしたりしていることに喜びを覚える。
そして、レコードを聴きながら本を読んだりしている。
美術の世界というのは確かに存在している。
もちろん、自分もその中にいるんだろうけれど。
でも、その中にいるのは自分じゃなくて、作品たちなんだ。
自分が自分であることをわかりたくて、絵を描いてきた。
結果、自分をわからせてくれたのは、その絵に対するリアクションだった。
僕はここにいて、ここで生きている。
都市から離れて、ここで生きている。
街も好きだから、時々は街に行く。
人も好きだから、時々は人に会う。
知り合いは多いが、友達は少ない。
友達は少ない方が真実味がある。
20代で先生をしてた頃の生徒たちを想い出す。
あの頃の彼女のことも想い出したりする。
一緒に遊んだ連中のことも想い出す。
子供の頃の毎日も想い出している。
過去を遡っては懐かしむ。
それが、確かに自分の血となり肉となっていることを実感する。
そして、明日に目を向けるのだ。
生きているってことは、そこが大事なのだ。
そうやって暮らしている。