• 11月9日 ソウル3日目

    気合いで目覚めて金近くんと美術館に向かえば、地下鉄が途中で止まってしまい、ちょっと焦ったけどタクシーでなんとか到着。

    今回の展覧会は『Made in Pop Land』というタイトルで、中国、韓国、日本の現代の美術を紹介するもの。僕はPOPという言葉で自分の作品がくくられるのが嫌でしょうがないのだけども、仕方ないことだといつもため息ついて諦めている。普通ならばポピュラリティを獲得することで失われていくスピリットを、それそのものを自分は大切にして決して失わないように心がけているつもりだ。けれども、そんなことお構いなしに作品は作者を離れていき、いつの間にか勝手に人々のものになってしまい、ずっと大切に心に留めてくれるオーディエンスもいるし、使い捨てのキャラクターのように飽きて画集を古本屋に売る人もいるというふうだ。POPという言葉で僕が連想するのは表面的なイメージの流通なのだ。

    展示に集中したいのに、今日は取材を3つも受けなければならなかった。しかもそのインタヴューの質問がまったく嫌な類のもので「どうして女の子ばかり描くのか?」とか・・・で、以前、アメリカの美術雑誌で受けた質問がよぎった。

    質問:作品は不幸せであった幼少時代を表しているものだという話は良く聞きます。作品の大体は自画像だ、と奈良さんはおっしゃいましたね。なぜほとんどの被写体は女の子なのですか?

    答:まず、僕の子ども時代が不幸だったと自分自身で思ったことはありません。ひとり遊びが得意で、動物たちとも話が出来て、空想力や想像力に富んでいたと思います。大人の眼には寂しそうに映っても、その被写体が寂しいと感じているかどうかは疑わしいものです。僕がよく言うのは「他者から見れば、孤独に映るような子ども時代」であっても、自分にとっては、毎日友だちと遊ぶよりも、必然的に内なる自分と会話し、感性を育んだ子ども時代です。また、方法論ではなく感性に沿って生み出される作品はすべて自画像といえるのではないでしょうか?人は見かけで物事を判断しようとする傾向があります。そのような人には描かれているものが「女の子」に見えるのでしょう。僕自身は、女の子を描いている意識はないし、男の子でもなく動物でもない。あえて(僕の嫌いな)カテゴライズすれば、「中性的であるところの子ども」と言えます。ちなみに、僕は「女の子を描こう!」と思って作画したことはありません。

    そんな取材を嫌々終えて・・・嗚呼、自分はもっと民間大使的に国際交流を笑顔で行わなければいけないんじゃないか?と自問自答はしたけれど、やっぱ自分の仕事はそういうことじゃなくて、基本的に制作するだけで、それが真実の国際交流につながっていくのだということを確信。ニュースやなんか、文化に対するメディアのあつかいこそ、時間稼ぎの使い捨てが多いのだ。

    ずっと夜まで展示作業してて、美術館は郊外の公園にあるために晩御飯にありつける場所もなく、もう今夜は腹ペコで作業するんだ~!と、意識が朦朧とする中、学芸員の李さんから店屋物のチャーハンを分けてもらって・・・なんか、一生忘れないくらい美味かった。

    やっと展示が終了して、時計を見たら12時15分前・・・12時が終電らしく、地下鉄の駅まで車にぎゅ~ぎゅ~詰めで乗りこんで送ってもらう。と、駅のホームに降り立ったら、反対側のホームでドラマの撮影中。2PMっていうアイドル・グループの一人が主人公らしく迫真の演技中。

    結局1時くらいにホテル近くの駅に着いたのだけど、金近くんとちょっと焼き肉・・・&マッコリ。今日は疲れたなぁ~~~。でも、明日はライティングだけだ!プレス会見なんて出なくてもいいじゃぁ~ん。マッコリ飲んで、ぐっすり寝て、昼前に着ければいいさ!