• 武四郎語り イタコの口寄せによる

    私の名は松浦武四郎。自分の事を少し話そうか。私は江戸時代の末期の1818年、松浦家の4番目の子として伊勢の国に生まれた。家はわりと裕福だったが、そんなことよりも家のある場所が良かった。私の家は伊勢神宮への参宮街道沿いに建っていて、お伊勢参りに向かう人々が家の前をひっきりなしに行きかっていた。その光景を私は飽きずに見て過ごし、日本の国の方々からこの伊勢に繋がる道が続いているのだと考えるだけで興奮していた。そして7歳の頃には、家にあった日本の名所図会(今でいう観光ガイド本)を暇があれば見るようになっていて、街道を通る人々に彼らの故郷の話を聞くのをねだった。当時のお伊勢参りは「文政のおかげ参り」と呼ばれていて、年間500万人もの参拝客が訪れたそうで、全国津々浦々からやってくる見も知らぬ人々に対して。警戒心よりも好奇心のほうが上回っていた私は、彼らのお国の話をわくわくしながら聴いていた。そしていつしか伊勢を飛び出して全国を旅してみたいと子供心に強く思うようになっていた。

    16歳になった私は、日本各地どころか唐や天竺へも行きたい、という書き置きを残して念願の旅に出た・・・のだったが、江戸に着いたあたりで居場所がばれて連れ戻されてしまう。それでもそんなことでは挫けない、翌年17歳の私は再び家を出た。まずは近畿から中国、そして四国、北陸、甲信越、中部に関東、東北まで、およそ1万キロの道のりを旅してまわった。お国が違えば言葉も違う。食べ物も風習もその土地独特のものが存在する。日本という国は広いのだ。それを知ることが旅の醍醐味というものなのだと感じていた。

    19歳の時には、旅を四国に絞って八十八か所の巡礼をしてみた。お伊勢参り同様に日本のいたるところからやって来るお遍路さんに出会い、宿で話を聴くことで自分の器が大きくなっていく気がした。その器に入れるものが今は少ないにしても、大は小を兼ねるというし、将来のために器自体は大きいほうがよいではないか。そして、人に会えば会うほどに、まだ知らない所はたくさんあると痛感し、私は自身未踏の地である九州を旅することを決めた。翌年20歳になった私は、田舎で使われている言葉に苦労しながらも九州を一周するのだが、平戸では体調を崩し病に倒れてしまう。多少の不調なら2、3日寝ていれば治るほど自分の体力には自信はあったのだが、今回は本当に倒れてしまったのだ。初めての土地で病に倒れ苦しむ私は、不安に押しつぶされそうになる。しかし、私は千光寺というお寺にお世話になり、そこで手厚く看病してもらえた。そこで療養できた私は回復し元気になった。健康のありがたみを知り恩に感じた私は、世話になったその寺で僧侶の務めをすることが恩を返すことだと悟り、すぐに出家して僧侶になってしまった。今にして思えば、旅の中に在る予期せぬ出来事や出会い、そこに自分の人生を任せてもいいのではないだろうか、という若さゆえに決めたことだったのかも知れない。そして気が付けば、6年間も僧侶として平戸で暮らすことになったのだが、故郷を顧みずに気の赴くままに過ごしてきた天罰なのか、その間に親兄弟が他界してしまった。しかしながら、天涯孤独の身となってしまったことは、私を次の旅へと向かわせることになる。私は還俗し、平戸にいる間に聞いていた奥州の北、海を越えたところに浮かぶ大きな島、蝦夷地に行こうと決心した。

    当時、私の親の世代あたりから日本の外にある国々は話題になっていた。ロシアによる蝦夷地侵攻の可能性を説き、国の防衛を論ずる林子平の全16巻からなる「海国兵談」(1787~91年)や、それに少し先駆けて出版された、医師であり経済学者でもある工藤平助による「赤蝦夷風説考」は、当時の海外の書籍や蘭学者、そして蝦夷地の南端、松前周辺から得た情報をもとに書かれたもので、ロシア研究の先駆けとなるものだった。無論、そういうところから蝦夷地に対してある程度の知識は得ていたのだが、16歳から10年という歳月を旅することで過ごしてきた私は、知識や理屈だけではない眼の前にある現実を肌で感じることの重要性をわかっていたし、なによりも行きたい、見てみたい、知りたい、と気持ちは既に蝦夷地へ飛んでいた。

    蝦夷地を論ずる書物はあるが、蝦夷地自体の情報は限りなく少なかった。蝦夷地の南西部渡島半島に領地を持つ松前藩は、蝦夷島全体から見ればわずかばかりの領地ではあったが、そこで蝦夷地に住む先住民であるアイヌとの交易を行い、藩の財政基盤は年貢米などによるものではなくアイヌとの交易で得た野生動物の毛皮や、日本各地から商人を雇いアイヌに労役させて海産物を得る場所請負制度で成り立っていた。他の諸国からしてみれば特別待遇であるのだが、それは蝦夷地の風土と地理ゆえのことなのだろう。松前藩はその待遇による利益を独占するために、和人の上陸を制限していた。それは場所請負制度のもとで不当に扱われるアイヌや、時折勃発するアイヌの反乱などの情報を隠蔽するためでもあった。

    そもそも江戸時代を切り開いた初代将軍である徳川家康は当初は松前藩を認めておらず、松前氏は蝦夷島主として客臣扱いで幕府に服していた。江戸幕府を開いた翌年の1604年(慶長9年)に家康は松前慶広宛に自ら署名押印し送った黒印状にはこう書かれていた。口語訳で記す(※1)。

    一、諸国より松前へ出入する者は、松前志摩守にことわらないで、 夷人(アイヌ)と直接商売をしてはならない。
    一、松前志摩守に無断で渡海し商売したものは、至急、報告しなさい。付則、夷人はどこへ行っても、夷人の自由である。
    一、夷人に対し非分を申しかけることは、厳禁する。右の条文に違反するものは厳罰に処する。
    慶長九年正月廿七日 黒印 

    松前志摩とのへ

    徳川家康は松前氏に先住民であるアイヌとの交易独占という特権を与えたが、アイヌへの道理に合わない不当な扱いを禁じ、アイヌには行動の自由を与えている。つまり先住民は松前氏の領民ではないということでもある。しかし、実態はそうではなくなっていく。松前氏は五代将軍綱吉の頃には旗本となるが、アイヌ民族は松前藩の圧政に苦しむことになっていく。

    私には未だ見ぬ蝦夷地が新天地のように思えていた。1845年、28歳になっていた私は津軽海峡を渡り、松前から噴火湾沿いに太平洋側を通る旅を計画していたが、松前藩や場所請負の商人たちによるアイヌへの不当な扱いを知らないまま始まった旅だった。松前藩の領地を出ると右も左もわからない。大まかな地図はあるが道は無い。そこで先住民であるアイヌに助けを求めるのは自然だった。集落ごとに入れ代わり立ち代わり快く案内をかってでてくれ、私は彼らの案内で噴火湾沿いから根室半島を目指し、そこから歯舞群島、知床まで道なき道を歩いたのだった。道中は彼らの説明をなんでも帳面に書きとめ、絵も描いて記録した。アイヌ民族との出会いは、言葉による意思疎通の難しさを越え、ひとりの人として接することで心を通じ合わせることをおしえてくれた。それは彼らの生活文化を知りたいと思う私の好奇心が、その文化に対して尊敬の念をいだくことになり、自分を謙虚にさせたからだとも思う。そして道なき道を進む旅を続けられたのは、彼らの助けと彼らからおそわっていく自然との関わり方にもあったのだ。道中はずっと一緒にいるものだから、私もアイヌ語を少しは理解し始めていたし、彼らの日常のしきたりもわかるようになっていった。言葉を覚えながら少しでも会話が成立し始めると、親しくなる速度は上がっていく。言葉の違う人々と一緒に旅をすることは、お互いの地位や民族を越えて、人というものの本質で付き合うことになる。彼らは文字を持たない民であったが、ユカラと呼ばれる口承叙事詩(神々や人間にまつわる物語を独特な節回しで語る歌のようなもの。前者は神謡と呼ばれる)の壮大な響きは心の奥にまで響いてくるものであった。私は彼らの集落ごとに歓待を受け、聞くもの目に映るものをとにかく文と絵にしていた。しかし、その中で彼らは古くからの言い伝えや生活、風習以外に自ら訴えるように話してくる話題があった。それは、松前藩や漁場を仕切る商人たちの彼らに対する扱いの実情であった。奴隷のように集められ、重労働をさせられるアイヌの若い男たちや、連れ去られて行く娘たち。その訴えに私の心は強く動かされたが、今の自分の力ではどうしようもなく、情けないがその無力感にうなだれるだけであった。そうして、松前から噴火湾、太平洋沿いを歩き、根室から知床までに及んだ最初の旅は終わった。

    翌年である1846年、私は蝦夷地への渡航の機会を得た。それは、樺太詰となった松前藩医である西川春庵による探査のお手伝いとして樺太まで行くというものであった。勿論、行かないわけはない。その旅で私たちは、蝦夷地の日本海側から北へ進みオホーツクに抜けてから、宗谷を経由して樺太を訪ねた。途中、松前で知り合い意気投合した儒学者で詩人でもある頼三樹三郎が旅に加わったりもした。心を通わせた私たちは四方山話に花を咲かせた。頼はその後、安政の大獄で捕らえられ幽閉を経て斬首されてしまうのだが、私の中での頼は今も蝦夷地にいて、私と笑いながら語り合っている。

    さて、蝦夷地探訪の情熱は2度くらいでは収まらない。私は蝦夷地へ3度目の旅に出た。今回は国後島や択捉島も訪ねるのだ。記録していく文も絵もかなりたまってきていたが、蝦夷地の地理を把握するには全然足りない。私は休むこと無く歩き続け、知り合いになったアイヌを再び訪ね親交を重ねる中で、今までの知識を確かなものとし、また新たな経験を通して見聞を広めていった。今までに記した帳面はたまりにたまっていて、私はそれらをまとめる必要性を感じながら帰路に着いたのだった。

    よくもこれだけの地図や風俗を描き記録を取ったものだと、我ながら感心したが、それは蝦夷地が持つ魅力のなせるものだった。雄大な自然風景とそこに暮らすアイヌの人々を思い起すと、帳面をまとめる作業ははかどった。地理、地名はもとより先住民アイヌの社会の成り立ち、彼らの文化や風習、生活全般を書きまとめた。松前藩によるアイヌへの圧政と場所請負制度で行われていた奴隷のような労働を告発することも忘れなかった。執筆を終えた私は「蝦夷日誌」と題し、それを水戸徳川家へ献上した。「蝦夷日誌」の評判は上々だったのだが、アイヌの人々を労働力として不当に摂取していた松前藩や商人たちからは、その記述から大きな反感をかうことになる。しかし、正義はアイヌの側にあるのだから罰せられるべきは、藩や商人側なのだ。

    「蝦夷日誌」の評判は、幕府をして蝦夷地御用御雇に私を命ずるに至った。私は晴れ晴れとした気持ちで、4度目の蝦夷地へ旅立った。4度目の旅に出て行く。以前の海岸線を主とした調査とは違い、将来的な道作りや町作りなどの計画を念頭に置いての旅で、内陸の調査が主だった。幕府という後ろ盾を得た私は、5度目の旅も内陸の調査を行い、山川の地理にアイヌ語の呼び名を当てて地図を確かなものにしていった。

    そして6度目の旅。私はこの旅に特別な使命を感じていた。それは、松前藩や雇われ商人たちのアイヌへの非道な行為を調べ上げることだった。以前から指摘はしていたことだが、今回は徹底的に調べ上げて幕府に報告しようと決意していたのだ。それを知ってか知らぬか松前藩や商人たちは私に刺客を差し向けたが、その存在に怯えながらも私は藩や商人の不正や非道な行為を調べ上げた。私は計203日にお及んだその旅を「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌(ぼごとうざいさんせんちりとりしらべにっし)」62冊としてまとめ上げた。私が蝦夷日誌として書き上げたものは他に「知床日誌」「夕張日誌」「石狩日誌」など計24冊にもなっていた。変わったものでは「蝦夷土産道中素五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」というすごろくも作った。これはアイヌ語の地名を辿り、彼の地の名物を記したもので、今の世で言うガイドブックなるものかも知れない。これらの書物をまとめ上げることができたのは、6回にわたる蝦夷地への旅があったからなのだが、その旅が遂行できたのはアイヌの人々の助けがあったからに違いない。共に歩き野営し、自分を信頼して全てを見せてくれた彼らの恩は忘れることはできないし、その恩になんとしてでも報いたい。そいう想いが自分に書物を作らせたのだと思う。しかし「近世蝦夷人物誌」と題しアイヌの人々の描写を通して、松前藩や商人たちの悪行をとことん書き表した本は、箱館奉行により出版に異議が申し渡され世に出ることはなかった。それを悔やんでも悔やみきれないが、武家出身でもない下級役人の自分になす術はなかったのだ。時として権力の前で真実は隠蔽されてしまう。

    ほどなくして日本には王政復古を経て明治政府が誕生する。文明開化のもとで新しい時代が始まるという空気が国中を包んでいた。そして、新政府は移民政策を取って蝦夷地を本格的に開拓しようとしていた。そこで数々の蝦夷地に関する書物を書き、蝦夷地に精通している私に声がかかった。

    1869年(明治2年)52歳になってはいたが、蝦夷地に行く気は満々だ。蝦夷開拓御用掛(えぞかいたくごようがかり)という開拓使の判官という役職を得て、蝦夷地へ渡ることになる。道作り町作りを計画する(現在の行政区画、市町村名、地名の八割ほどはその時に考えられたものだ)のが役目だった。また蝦夷地に名前を付けることになり、私は6種類の名前を考えて政府に提出した。その中で「北加伊道」が採用され最終的に「北海道」と名付けられた。私は、音威子府を訪ねた時に長老のアエトモから聞いた「カイ」という言葉を噛みしめていた。「カイ」は「この土地で生まれた者」という意味だと語った古老を思い出していた。彼はまだ存命だろうか、北海道と言う新たな名前をどう受け止めてくれるのだろうか。

    蝦夷地が北海道と命名された2か月後、政府はアイヌを使役する制度の廃止(アイヌを重労働に従事させることの禁止)を通達した。私は長年かけて訴えてきたことが報われたと感じた。とても清々しく心臓が高鳴っていた。旅で出会って話を聞いたアイヌたちの顔が怒涛の如く浮かんできた。

    しかし、この通達は商人たちの猛反対にあい、開拓使への賄賂などを通じて通達は無視された。信じがたいことだったが、新政府の命を受けた開拓使も、所詮は松前藩の役人と何ら変わらないのだ。蝦夷開拓御用掛という自分の役職に何の力もなかった。私の絶望を察して欲しいとは言わないが、私は辞表を提出した。

    「開拓使とは、何の考えもなく集まっている烏合の衆にすぎない」
    「商人たちの言いなりに動くなど、全く嘆かわしいことだ」
    「このようなところにいるのはもう耐えられない、辞めさせていただきます」(※2)

    翌年には政府から貰った従五位という、貴族と成る官位も返上した。そうして地位や名誉を捨て去っても心は晴れるわけではなかった。旅した中で出会った人々に合わせる顔なんて無いのだ。国の大義にたかって、私利私欲に走る輩が堂々と歩き回るところが、自分が名付けた北海道だなんて。

    翌年1871年(明治4年)戸籍法が制定され、アイヌは日本の国民に組み入れられた。そして、アイヌ語の禁止、名前を日本名へ、狩猟やイヨマンテ(熊送りの儀式)、入れ墨や耳輪など、独自の文化や風習の禁止が言い渡される。

    もう後ろを振り返る気力もなかった。余生にしばしば旅には出たが、北海道へ向かうことはなかった。こうして、恐山のイタコに降ろしてもらったように語ってきたが、1888年(明治21年)享年71歳で私はこの世を去っている。最後に辞世の句を書き記して天に戻りたい。

    「我死なば 焼くな埋めるな 新小田に 捨ててぞ秋の 実りばをみよ」

    参考資料
    ※1.北海道大学附属図書館 北方資料データベースレコードID: 0B037930000000 慶長9年徳川家康黒印状(松前慶広宛)
    ※2.NHK 歴史秘話ヒストリア「北の大地に夢を追え 北海道誕生の秘密」2015年
    HBC 「北海道命名150年記念特番 松浦武四郎が夢見た北の大地」 2018年
    ウィキペディア 松浦武四郎 松前藩 

    『ユリイカ』 2019年8月臨時増刊号
    「総特集:松浦武四郎 アイヌ民族を愛した探検家」