• 室内風景 / 部屋の中にいる人

    1970年に描かれた「室内風景」と題された絵がある。新聞紙が壁一面に貼られた押し入れの中のような狭い空間で、体育座りしている作者がこちら側を見ている。組んだ腕の両肘を両ひざにのせて、険しくもなく優しくもない虚ろな視線をこちらに向けている。その視線に応えようと、自分は絵の中に入り込もうとするのだが、その空間は、そこにいる彼と共に鑑賞者を拒絶している。

    神田日勝を知ったのは1978年、青森県弘前市の高校を卒業して上京した頃だ。僕は都内の美大の彫刻科に合格はしていたが、絵を描きたいと切に思っている自分に気づいて入学を取りやめた。そして次の年に絵画科を受験しようと思って、小さな美大予備校のようなところを訪れる。そこで出会ったのが十勝出身のT君だった。共に北国から出てきた僕たちは、北国という言葉の下で心のハグをしたのは確かだった。

    北の寒さとその厳しさ、そしていろんな意味での貧しさをお互いに知っているという安心感で、僕らはとりとめもなく心から語り合ったと思う。東京の空の下、四畳半の彼の下宿部屋で夜が明けるまで語り合い、朝日の眩しさに眼を瞬かせた日々。彼の部屋でゴロゴロして、彼が作る晩御飯を毎日のように一緒に食べていた。T君は優しかった。彼の実家からアキアジ(鮭)が送られてきた日の鍋の美味かったこと!

    ……あゝ(笑)こんな自分の若き日々の思い出を語ろうと思っていたのではなかった。神田日勝のことだ。そう1978年、T君は高校を卒業して上京する直前に、札幌の道立近代美術館で開催されていた神田日勝の大規模な初回顧展を観ていた。彼はもちろんカタログを買っていて、上京時の荷物に忍ばせていたのだ。僕に神田日勝という人と絵をおしえてくれたのはT君だった。彼に会っていなかったら、神田日勝の絵をもっと後に知ることはあっても、その人となりを知ることはなかったのではないかと思う。普段物静かな彼は、神田日勝については雄弁に語り、僕は図版でしか知らないその画家に憧れた。いつの間にかT君と僕には神田日勝という先輩が出来上がっていたのだ。そして僕たちは武蔵野美術大学に入学し、共に絵画を学び始めた。しかし僕は学費を使い込んでヨーロッパ旅行に出かけ、授業料を払えなくなり大学を辞めてしまった。結局は再受験した学費の安い地方の公立大学に移ることになるのだが、T君とはだんだんと疎遠になっていった。それでも、神田日勝と共にT君は今の自分にとって忘れることのない重要な人なのだ。

    2017年の夏、北海道に一ヶ月ほど滞在していた僕は、初めて十勝を訪ねる。鹿追町の美術館でたくさんの神田日勝の絵を観ることができた。すべての絵に、今まで図版で見てきた何十倍もの衝撃を受けた。たった一人でその衝撃を自分の内にしまってしまうには余りある感動で、その感想をT君に言いたくてたまらなくなった。今、あの頃に戻って、上京する直前にT君が観た神田日勝の絵のことを、今ここで初めて観た自分の気持ちで語り合いたい衝動を抑えきれなかった。僕の記憶力は、不思議なことだけれども奇跡的に彼の実家の住所を思い出させてくれて、すぐに鹿追町から彼の故郷である豊頃町へ向かった。カーナビに彼の住所は出てこなかったが、とにかく豊頃町に向かった。町の人口は現在三千人を超えるくらいで、鹿追町より二千人ほど少なく、雄大な十勝川が海に注いでいるところだ。僕は町の郵便局でT君の住所を聞いたが、受付の若い女子職員は首を横に振った。でもまぁ、T君が語っていた十勝川の大らかな流れを見て行けることで良しとしよう、と思った時だった。奥の方から局長らしき人が「その住所の方の名前はわかりますか?」と尋ねられたので、T君の名や高校や絵が上手かったことなどを話したら、その局長は偶然にもT君の妹の同級生だった。局長から「その住所はもう無いし、大分前にT家は札幌に引っ越したけれども、家はまだ残っている」と、家の場所をおしえてくれた。

    T君は故郷を思い出す度によく言っていた。「嫌なことがあると、家の裏の土手を登って十勝川を見に行くんだ。大きな流れを見ていると、悩んだり悲しんでたりする自分がちっぽけに思えるんだ。」

    局長からおしえられたT君の家は家並みの途切れた町のはずれにあった。僕は車を停めると、彼の家の裏の土手をかけ登り川の見える草むらに腰をおろした。十勝川はまさしく大河だった。その雄大な川の流れは、確かにT君が言っていたように人間の小ささ、悩むこと自体のちっぽけさを感じさせた。しかしまた、そのちっぽけな人間が悩むことの普遍性も感じさせてくれた。

    そして神田日勝なのだ。美術学校とは無縁で、絵筆より重いものを持ったことのないような連中を知らず、北国で生活するという厳しい自然の中にいて、絵筆を持つことに己の生を重ねて生きていた神田日勝なのだ。中央に出ることなく、自分の両の足が立っているその地で描くということを、その燃えるような情熱でもって実践していた彼なのだ。生活を共にする家畜を描くことのリアリズム。技術が後から追い付いてくるような表現力。

    地方にいて、物理的な中央ではなく己の中、自己の真ん中に錨を降ろして芸術を突き詰めていった人。彼に対してそんなイメージを思うと、岩手県花巻の宮沢賢治が思い浮んでくる。育った地で創作活動を行い、生前の評価よりも死後に評価が広がっていく人たち。神田日勝その人もそうではないだろうか。それは己の世界感が普遍性をもつ人たちだ。宮沢賢治は作品中に広がる彼の宇宙観、善悪の宗教観。神田日勝は生活の中に置き去りにされていたリアリズムの絵画化。なんて、思ったりする。

    しかしながら、若き神田日勝は画家として悩む。絵画として、美術としての思考、その葛藤。その悩みや迷いは1966年あたりの〈画室〉の連作にあるような、影を無くした塗り絵的な絵画や、1968年の表現主義的な《晴れた日の風景》や〈人と牛〉の連作にあらわれる。いろいろな可能性を試し格闘しているのだ。1969年の作品には、今までの表現主義的なものに、構成的な心理リアリズム絵画が入り混じっている。そして1970年の《室内風景》に繋がるのだ。

    一般的には、十勝の馬を描いた絶筆である1970年の《馬(絶筆・未完)》が彼を象徴する絵画であるのかもしれない。しかし自分は確信している。あの押し入れのような空間に新聞紙を貼り詰めて、こちらに虚ろな視線を向けている画家。全てがあのちっぽけな画室から生み出されていた事実。彼は農民というカテゴライズとは無縁であり、何かを確かにしようと制作するひとりの画家であったのだと思う。宮沢賢治の文学が、物理的なことよりも精神的な思想から生み出されたように、神田日勝の絵はあの狭い画室から、馬や静物としての農作物の姿を借りて、作画的手法の実験と実践、そして仏教的な意味での生死感までも表現しようともがいていたのではないか。その人間的な画家の苦悩に自分は共感するのだ。その全てが《室内風景》の中に表現されている。《馬(絶筆・未完)》は眼の前に在るものであり、ある意味自身を重ねるものでもあるのだが、《室内風景》の中にいる彼自身は彼の眼の前に在るものではなく、彼自身の内に在るものだ。《室内風景》は観る人にとっても、自身を重ねるものではなく、地方や都会や住むところを越えて、精神的に存在している自身そのものなのだ。

    「神田日勝 大地への筆触」展
    東京ステーションギャラリー、神田日勝記念美術館、北海道立近代美術館 図録掲載 (北海道新聞社発行 2020年)