• Will the Circle Be Unbroken

    初めてカメラを持ったのは、小学校の修学旅行。
    絞りしか付いていない、おもちゃのカメラだった。
    訪れた函館で、何を撮ったのかほとんど思い出せない。
    まともにプリントできたのは、たった2枚だけだった。
    たった2枚の函館港の風景が、僕の修学旅行写真のすべて。

    本物のカメラを手にしたのは、中学校に通い始めた頃。
    家族の共有物だったが、なんとなく自分のものになった。
    一番安い白黒フィルムを買って、笑い顔の同級生たちを撮った。
    猫や犬や動物たちも撮ったし、何の変哲もない風景も撮った。

    高校に入ってからは、カメラを放り出して遊んでいた。
    記録することに興味がなく、今を生きることが楽しかったのだ。
    それは高校を卒業して、上京してからも同じだった。
    大学で絵を描き始めるようになっても、そうだった。
    記録することが思いつかないほど、毎日が楽しかった。

    大学を卒業して、これからもずっと絵を描いていくのだと思った頃。
    ひとりでドイツに渡って、なんだか心細かった頃。
    ポツンとひとりぼっちになったように感じたあの頃。
    僕はまたあの懐かしいカメラを手にしていた。
    中学の時に手に入れた、あのカメラを手にしていた。

    思い返せば大学時代、ひとり旅では写真を撮っていたじゃないか。
    ひとりでいることが、自分にカメラを持たせるのだ。
    ドイツの屋根裏部屋で天井を見つめ、なんだか腑に落ちた気がした。

    それからは、過ぎ去っていく日々を愛おしく感じ始めた。
    絵を描いているスタジオ風景を撮った。
    眼に映っては流れていく景色を撮った。

    大きなカメラを使ったり、小さなカメラを使ったり。
    撮ることが楽しくてたまらなくなっていた。
    幸運にもその楽しさは今も続いている。

    でも、大きいカメラはもう使っていない。
    コンパクトなデジカメやスマホで気軽に撮ってばかりだ。

    写真自体の物質的なクオリティに興味はない。
    ファインダーを覗いて、目の前をトリミングすること。
    自分の美意識を信じて、被写体を決めること。
    もしかして、色や光より重要な何かがある気もする。

    自分にとっての撮るという行為。
    それは、自分の感性を錆びつかせないためのトレーニング。
    感性に潤いをあたえるためのワークショップかもしれない。

    絵を描くことや彫刻を造ること。
    旅に出ることや文章を書くこと。
    自分を取り囲むものと自分が取り囲むもの。
    何かに対して感じることと、それを違う形にして表すこと。

    自分に関係するすべての事象は、助け合うように繋がっている。
    相互に絡まりあったその繋がりは、輪のようになって途切れることはない。
    その輪は、決して途切れることなく存在し、ゆっくりと回り続けるのだ。

    「奈良美智 – Will the Circle Be Unbroken」展 に寄せて
    代官山ヒルサイドプラザ 2017