• 絵の代わりに―高畑勲の描いたもの / インタビュー

    高畑作品との出会い―『狼少年ケン』から『アルプスの少女ハイジ』まで

    聞き手 蔵屋美香(東京国立近代美術館学芸員)

    ─高畑さんが関わった作品で、奈良さんが最初にご覧になったのは『狼少年ケン』(1963―1965)ですか。

    奈良  そうですね。1964年の東京オリンピックをきっかけに、みんながテレビを買うようになって、チャンネル数は少なかったけど『鉄腕アトム』や『狼少年ケン』のような子供番組が必ずあった。僕はテレビでアニメーションを観た最初の世代なんです。まだ白黒だったけど、頭のなかではカラーに補正して見ていたような気がする。
    『狼少年ケン』の主題歌は歌詞が「いつもおいらはなかない」や「ガッチリつかむぜ太陽 あらしはまたくる」(作詞=大野寛夫/作曲=小林亜星)というすごく元気を与えるようなものだったんです。ケンは狼に育てられた人間という設定で、ジャングルに住んでいたんだけど、いま思うとそこに当時の日本の状況を感じる人がいっぱいいたんじゃないかな。でも『狼少年ケン』に高畑さんが関わっていたとはずっと知らなくて、お会いしたあとに知りました。それがわかったときに『狼少年ケン』という作品もすごく特別なものに思えてきて、なにか自分のなかでつながるものを感じたんですよね。
    『パンダコパンダ』(1972)や『アルプスの少女ハイジ』(1974)にしても当時は演出した人、監督した人の名前は知らなくて、ある意味ニュートラルに見ていたんだけど、後になって高畑さんのことを調べたときにそれらが全部つながって、びっくりした記憶があります。同じジブリのアニメーションでもこれとこれは他とぜんぜん方向性が違うよなあと思っていたら、高畑さんの作品だったということもありました。

    ─『狼少年ケン』は、もともと月岡貞夫さんが原画から演出までお一人でされていて、手が回らなくなったときに何話か高畑さんが初演出で関わられたということです。高畑さんの回は、日常が細かいところまで描かれていたり、ストーリーにダークな部分があったり、明らかに他の回と違う印象だったと関係者からうかがったことがあります。冒険活劇特有の大きなアクションがない代わり、妙に頭のなかに残っちゃうというような。

    奈良  高畑さんの作品には見る側に託すというか、なにかヒントを与えてくれるようなところがあって、最後の作品になった『かぐや姫の物語』(2013)まで同じものが流れ続けているように感じます。そのことに、ご本人は若いとき─『狼少年ケン』や『パンダコパンダ』のころ─には気づいていなかったかもしれないけれど、どこかで確信した時期があるんだろうなと。おそらくその転機になったのが歴史的な問題を取り上げた『火垂るの墓』(1988)や、現実的な社会問題にアプローチした『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)じゃないかと勝手に思っています。そのあたりから高畑さんのなかにも確固たるなにかができ上がってきたんだろうなと。

    ─『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)は映画館で観られたんですよね。

    奈良  映画館です。当時映画はテレビの上をいくエンターテインメントで、当時の子どもにとって映画館に行くというのは夏休みや冬休みの一大イベントでした。いまのように入れ替え制ではないから、母親が握ってくれたおにぎりを持っていって、お昼も映画館のなかで食べて、一日中ずっといました。一度行くと兄貴が「帰ろう」と言うまで3回は観ましたね(笑)。しかも当時はいつも満員だったんですよ。座席と座席のあいだのコンクリの通路に新聞紙を敷いて観ている人が大勢いました。いま以上に映画館という場所が特別な装置だったんです。
    『ホルス』に限らず当時観たものはすべて、子供の自分にとって360度の画面で見ているようなイメージなんです。テレビと違って音も大きいし、暗いなかで映像だけがブワーッと浮かんで、音もサラウンドじゃないはずなのに、あちこちから聞こえてきた。

    ─次は『パンダコパンダ』ですね。

    奈良  『パンダコパンダ』が上映されたのは中学校に入学したころで、柔道部に入っていたし、本当はもうこんなの観にいく年齢じゃないよなと思っていたんですけど(笑)、宮崎さんの絵柄が好きだったんです。動物も好きで、なぜかわからないけど隠れて観にいきました。二作目(『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』、1973)のときはポスターまで買って、アニメオタクになりかけていたかもしれない(笑)。『パンダコパンダ』はハートウォーミングな、純粋な娯楽として完璧に子供を対象にしているんだけど、それでも絵がもつおもしろさがすごくあったように思います。

    ─その後に『アルプスの少女ハイジ』。

    奈良  『ハイジ』を見ていたころは、だんだん大人になっていく過程で、自分のなかに子供っぽいところが残っているのが嫌だったんです。全部捨てて大人になりたいと思い不良にも憧れつつ、その一方では純粋なものにも惹かれていて、でもそれを捨てないと大人になれない……という年ごろだったんですよね。その捨てなきゃいけないもの、でも捨てきれない、純粋なものの核心が『ハイジ』のなかにはあった。だから部活がある日でも「今日は『ハイジ』の日だから」なんてわざと言って帰るようなところもあって、なんであんなに純粋に見ることができたのかわからないけれど、ほかのアニメにはぜんぜん興味がなかったですね。

    ─私は当時ちょうどハイジぐらいの歳の女の子だったので、素直に自分を主人公に重ねていました。それを中学生のお兄ちゃんがどう見るのかっていう想像がつかないんですよね(笑)。

    奈良  もしもそれが『トム・ソーヤの冒険』とかだったら多分見ていないと思います。つまり一方では自分のなかにある、ハイジと同じくらいの女の子が持っている気持ちみたいなものを否定しないと男の子になれないという思いがあった。でも、まだ声変わりしたばっかりで、自分のなかに女の子みたいな考えもあるし、男女関係なく遊べたりもするという、それが変わっていくなかでどうしても捨て去りたくない自分の持っていた女の子の部分、それをハイジが持っている気がしたんです。同じ女の子でもクララではなくハイジこそが持っているもの、つまり冒険もするし、カッとなるし、すぐ落ち込んで泣いたりもするし、でも前向きに生きるという、そういうものを全部否定しないと、男の子─自分が思う男の子ね、『柔道一直線』の主人公みたいに細かいところに気が回らず、競争ばっかりしているとか(笑) ─になれないと思っていたんです。


    ─性以前の幼年の世界からある種ステレオタイプ的な男の子の世界に入っていくときに、女の子的なものを捨てなければならない。あるいは、10代の男の子という型に自分をあてはめて大人になるときに、型にはまる以前の子どもの世界を捨てなければならない。その捨てるはずのものがいろいろとハイジという子どものなかにはあって、迷う奈良さんの気持ちを引き止めていたということですね。


    奈良  多分それは誰にでもあるんじゃないかな。人によって違うとは思うけど。ある人は男女を意識しだして、本当は女の子と遊びたいけどわざと遊ばなくなって男の子とばっかり固まったり、あるいは一緒に帰ろうとか女の子から誘われても「なんであいつと一緒に帰らなくちゃいけないんだよ」とか、まったく逆のこと言ったりしますよね、本当は一緒に帰りたいのに(笑)。
    あと、山のなかに花がたくさんあるのは当たり前なんだけど、ハイジはいちいちその花に対しても「きれいだ」とか「かわいい」とか「素敵だ」とか、そういう表現ができる。人を疑うことも、騙すこともなくて、動物も草花も人々も年上・年下も関係なく、すべてを平等に見ている。クララは同い年くらいでももう少し大人ですよね。社会のなかで自分の置かれている状況がわかっているし、自分がどうすべきかもわかっている。でもハイジは自分がどうすべきかまったく考えず思うがままに行動していて、純粋にその時言いたいと思ったことを言っている。自分はそういう思いを捨てていくことが嫌で、でもテレビのなかにはそういう自分がいて動いているみたいで、それでハイジに自分を重ね合わせて憧れていたんだと思う。


    ─わたしとはまったくちがう『ハイジ』のあり方だったんですね。でもそこで捨てられずに残ったものは、結局いまの奈良さんの作品のもっとも重要な部分をなしているような気がします。まずなにより奈良さんの作品には子ども、特に女の子が常に登場します。加えて、奈良さんがいまハイジに関して言った、人間も人間以外の動物や植物も等価だという感覚って、奈良さんの作品に一貫してある特徴です。女の子とネコがナイフを受け渡している初期作《続いていく道に》(1990、青森県立美術館蔵)や、頭が森の木々になっていて、人と森の中間のような存在である一連の「森ガール」なんかがそうですよね。
    でも、高畑さんの描く子どもたちだってずっと自然のなかにはいられるわけではない。『かぐや姫』と『ハイジ』って、話の構造は同じですよね。かぐや姫は山里から都に連れて行かれて別人のように屈折し、ハイジもアルプスの村からフランクフルトに連れて行かれて夢遊病になります。どちらの主人公も、本来自分がいる場所はここではない、鳥、虫、獣、草木や花の世界に戻りたい、という痛切なメッセージを発しています。


    奈良  そう、社会が弱い者に与えるプレッシャーというものがあって、そのなかでいろいろなことを強制される。それを受け入れられる人は社会に溶け込んでいくけれど、受け入れられない人はマイノリティになっていく。このマイノリティ、目立たないものに対するまなざしというのが高畑さんの作品には一貫してあるなあと思います。仮にハイジを別の視点、例えばクララや他の人の視点から眺めたとすると、ハイジというのは手がつけられない子ども、要するに社会に馴染めない存在ですよね。でもマイノリティの側から描く高畑さんのやり方を通すと、原作者のヨハンナ・スピリが描く『ハイジ』とは全然違う印象のハイジが浮かび上がってくるんです。
    『火垂るの墓』の兄妹もそうですよね。あれは高畑さんが作った話ではないけど(原作=野坂昭如)、やはりどうしようもなく社会の片隅に押しやられていくマイノリティの視点から世界を見せている。
    それから、こうした社会のなかで抑圧されている人って、夢を持つんだよね。でもその夢を持たせることが果たしていいことかどうか、例えば児童文学の人たちはいつもそこに悩むんじゃないかなと思う。その点、高畑さんの作品はどれも安易に夢を持たせない。その夢がかなうことも少ない。

    ─自分が望んでいない場所に押し流されて戦ったかぐや姫は、最後はすべてを忘れて月に帰るしかない。『ぽんぽこ』では、狸たちは里山を取り戻すことができず、主人公の正吉は人間に姿を変えて生き延びる。『火垂るの墓』でも、死という現実はぜったいに取り戻すことはできない。

    奈良  『火垂るの墓』は、原作の小説では見えてこないところがすごくビジュアライズされている。ディテールが色んなところに詰まっていて、それが原作とは違う『火垂るの墓』の姿を見せてくれていますよね。

    ─野坂さんは、『火垂るの墓』には実写化の話もあったけれど、焼け跡や飢えた人間の表情はセットやメイクでは作れない、特に覚悟もないのに妙にあっけらかんと一億玉砕に向かって流されていたあの時代の空気を丸ごととらえることも難しいだろう、それで断ってきた、とエッセイで述べられています。でもアニメーションなら可能ではないかと思って話を受けた、と(野坂昭如「アニメ恐るべし」、『ジブリの教科書4 火垂るの墓』、文春ジブリ文庫)。


    奈良  『オン ハピネス ロード』(監督=ソン・シンイン、2017)という台湾のアニメーション映画があって、それは日本でいうと昭和40年代が舞台かな。小さい女の子が主人公の、非常にスタジオジブリ的、しかも高畑的なアニメーションだと思うんですけど、これは最初、実写の予定だったものが、監督がやっていくうちに実写じゃ駄目だということになってアニメにしたという話です。そういう、アニメーションが持つ実写を超える可能性というのがあると思うんですよね。


    ─アニメーションだけのリアリティということですよね。普通にリアリティっていうと、もちろんモノそのものを写す実写のほうが得意だし手っ取り早いわけです。しかし高畑さんは、これは誰もが言うことなのでほんとうにいまさらですが、実写で出来ないことをアニメでやったとき、そこにアニメにしかできないリアリティがどう出るか、ということにものすごい情熱を注いでいらっしゃるんですよね。


    奈良  そうですよね。1980年に20歳だったとき、はじめてヨーロッパを一人旅して、マイエンフェルトという(『ハイジ』の舞台になった)村に行ったんです。そうしたら本当にアニメと同じ風景でびっくりしました。そのときは日本語の案内もなにもなくて、駅に降りても街の人はこの人なにしに来たんだろう?という感じで、まだアニメで観光地になる前でした。街のなかを歩くと町並みや広場、窓というようなディテールが 本当に『ハイジ』で見た風景と同じなんですよ。
    それまでアニメというのはすべて架空のもので、取材なんてしなくてもある程度わかっていればできるんじゃないかと思っていたんです。時代考証など結構適当なものなんかもあって─時代劇なのに「チャンス!」とかいう言葉が出てきたりね(笑)─、すべてにおいてリアリティというものが欠如していると思っていた。でも高畑さんたちはそれだけ取材したということですよね。その時はそういうことも知らなくて、そもそも監督・高畑勲という存在自体に気づいていなかったので、ただ制作会社のズイヨー映像っていうところがすごいところなんだなあと思っていました。

    ─このディテールとリアリティという問題はとっても大事なので、あとで立ち返ってぜひ詳しく話をすることにしましょう。

    高畑さんとの出会い

    ─そもそも奈良さんは、何がきっかけで高畑さんと出会われたんですか?


    奈良   フランスの詩人、ジャック・プレヴェールの詩を高畑さんが訳して本にするにあたって(『ジャック・プレヴェール 鳥への挨拶』、ぴあ、2006)、その本の挿絵に僕の絵を使いたいと言ってくれて、初めて会いました。最初はもっと怖い人だと思っていたんです。でも高畑さんが僕の作品を思ったよりも昔から観てくれていたという話を聞いてびっくりしました。

    ─高畑さんは美術の本も書かれているし、実際いろいろな美術館で姿をお見かけしたし、美術の部分だけ取ってもほんとう にあらゆるものを観ていらっしゃいますね。

    奈良  『鳥への挨拶』の挿絵は、あとでプ レヴェールの親族がいままでで一番この詩 と合っている、フランスでも出したいと 言ってくれたと高畑さんから聞いて、うれ しかったですね。

    ─描き下ろしじゃなくて、多くはもともとあった絵から詩にあわせて高畑さんが選んで使ったんですよね。

    奈良  描き下ろしも少しあるにはありますけど、ほとんどはそう。本ができたとき、自分の中にも期せずしてテーマというものがあったんだなあと思っておもしろかったりしたんだけど、でもイマイチだと思う絵も使ったんですね。たとえばこれとか(《自由な外出》)。これは本のために描き下ろしたものだったと思うけど、なんかイマイチに見えていた。それで、出版された後に手元に色校正用のゲラがたくさん残っていたので、ある夜に発作的にその上にいろいろ描き足していったんです。それを弘前でやった「 A to Z」(奈良美智+graf 、2006年)という展覧会で展示しました。そうしてやっとこれでこの本の仕事は終わったんだなと思いました。高畑さんはその展示を観に来られていて「絵が飛び出してくるようだった」と言ってくれましたね。そもそもこんな遠いところまで観に来てくれたということ自体がありがたかった。

    ─奈良さんは、具体的にはどういうところがイマイチって思って、それにどういうふうに描き足していったんですか?

    奈良  既にあるものを使うのは問題なくて、新たに描いたのがよくなかった。要するに挿絵になってしまっていたんです。高畑さんが「これがいい」って選んで持ってきてくれたものは自分でもびっくりするくらい詩とうまく合っていたんだけど、新しく描いたのはわざとらしくて、挿絵─挿す絵─でしかなくて……。

    ─たとえば「自由な外出」というタイトルの詩であれば、その通り「外出」を描いてしまう、ということですか。

    奈良  そうなんです。こういう仕事も初め てで、いちおう締切とかもあって、全部間 に合わせてやったけど、あとになって自分 のなかでなにか違うと思って。ゲラの上の 描き足しは一晩で全部やったんですよ。

    ─高畑さんが奈良さんのこれを、と既存の作品から選ぶときには、たぶん詩と絵が対等な関係になるようなものを探し出していらしたんじゃないでしょうか。鳥の詩だから鳥の絵、犬の詩だから犬の絵、ではなく、どこかズレつつ詩と絵が共鳴している、というような。でも、奈良さんがまず詩を読んでから改めて描くと、詩に引っ張られて、詩に沿って絵をつけているという感じになってしまう。

    奈良  仕事みたいになってしまう。それなりのものはできるんだけど、それ以上でも以下でもない。高畑さんが選んでくれたものは詩と絵が対等なんですよね。
    あと、高畑さんはもちろんほぼすべてのプレヴェールの詩を読んでいて、全体の大きなものの見方、ひとつの大きな詩感に含まれるものに照らしてその詩にあった作品を選ぶから、広い視点から作品を持ってこられるんですよ。でも僕の場合は、どうしてもひとつの詩だけから描こうと思ってしまう。

    ─たとえばこの詩のなかのプレヴェールの「鳥」がプレヴェールのほかの詩のなかの「鳥」とどうつながっているか、みたいな、プレヴェールの全体世界を見ている高畑さんとは、どうしても理解が違ってしまうということですね。

    奈良  詩に関係なく描いたものと違って、詩にあわせて描いたものはやはり表面的にしかできていない。言わなきゃ見る人にはわからないかもしれないけど、やっぱり自分のなかでは許せないんです。

    ─うーん、おもしろいなあ。奈良さんが描きなおしたことは聞いていたんですが、その理由がこういうことだったとは具体的には知らなかったです。

    奈良  まあそのときは、やりなおさなくていいいところまでやりなおしたんだ けど(笑)。でもそこで本当に、詩と自分が朗読合戦みたいなことをしているんだなと思えた。

    ─高畑さんが求めていた詩と絵のイーブンな関係作りの土俵に、そこで初めて奈良さんも乗っかれたということですね。

    奈良  高畑さん自身もここは不満なんだという訳があったらしく、「〝太陽〞を〝彼女〞と訳したんだけど、それでよかったのかなあ」とか、細かいことを後々言っていました。伝わるからいいじゃん、と僕は思ったけど(笑)。ひとつ間違いがあっても、全体としてはその間違いなんかどうでもよくなるような力がいい作品というのはあって、すごくいい歌をうたっていて、歌詞を少し間違っても、いい歌に変わりはない。でも高畑さんはそういう小さなところまですごくこだわっていましたね。

    ─そういうところが僭越ながら高畑さんらしいということなんでしょうね。

    奈良  そうなんですよ。その後、僕が上から描きまくった絵を集めて、それでもう一回こういう本を作りたいって言っていたなあ。

    気が合うところ

    ─プレヴェールのお仕事がきっかけで出会ったわけですが、その後、高畑さんと奈良さんは仕事を超えて長く付き合いを続けられましたよね。気があったということなんでしょうか。


    奈良  でも、僕のほうが田舎者だなと思うことはよくあったな(笑)。田舎者根性というのかな、なんというか自分は小さいなと感じさせられることがよくありました。普通の会話でも、大きな人だなあと思うことがあった。

    ─高畑さんのこういうところがご自分と似ているなあと感じたとか、高畑さんのこういうところに惹かれたなあ、とか、具体的になにかありますか。

    奈良  自分で言うのも変ですが、僕は絵を描いているけど独創的な画家だとは思っていないんですよね。かといって職人タイプというわけでもなくて、強いて言うと学者タイプというか、結果がいつ出るかがわからないような、傍から見たらしょうもないような勉強をずっと続けている。でもそれがしょうもないとはまったく思っていないんです。あとは、勝手にやっていいよと言われるとできるのに、なにか決められると急にできなくなって萎縮してしまうところとか……は、ちょっと違うか(笑)。

    ─要はこういう目的のためにやりましょうというやり方がダメだということですか。

    奈良  ジブリで言うと宮崎駿さんは天才職人という感じで、エンターテインメントを徹底させることができるし、観客を意識してものを作ることができるんだと思う。でも高畑さんは仕事がすごく遅くて、やりたいものを完成させるのに大変な時間がかかる。思うにそういう、ゴールのためにうまくできないところが似ているんじゃないかな(笑)。
    それから高畑さんは先頭に立ったりスタンドプレーをしたりはしないタイプで、そこも好きですね。

    ─それはご自分でもおっしゃっているのを聞いたことがあります。ヒーローものの冒険活劇に批判的だったことは知られていますし、東映時代の労組の話を少しうかがった際も、ちょっとロマンティックに捉えてしまうこちらに対して、大所高所からヒーローとなって民衆を率いるみたいなことじゃないんだ、と強くおっしゃっていました。

    奈良  同じジブリという場所にいるから余計にわかるけど、高畑さんと宮崎さんはキャラクターが本当にまったく違うんですよ。たとえば黒澤明と小津安二郎とか、撮り方はまったく違うけどどちらもすごい。同じように宮崎さんは宮崎さんで天才的な人だと思うし、高畑さんはまた違うタイプで天才だと思います。宮崎さんは少年の心をずっと持っている人。高畑さんは自分のイメージでは少年というより真面目な、昔の学生さんみたいな感じかな。

    ─『ルパン三世 カリオストロの城』とか『未来少年コナン』とか、息を呑むような冒険活劇の躍動感はやはり宮崎さんなんでしょうね。

    奈良  宮崎さんは、カメラの視点なんかもすごくうまい具合に360度動かしている。でも高畑さんは三脚を置いてじっくり対象を見る感じなんですよ。そのおかげでたとえば『かぐや姫』のような作品ができる。『かぐや姫』は高畑さんにとっての冒険活劇だと思うけど、宮崎さんの〝360度〞的な冒険活劇と『かぐや姫』の活劇とを比べるとその違いは本当に歴然としています。『かぐや姫』は定点なんですね。カメラが定点にいて(いわゆる)、姫は奥から手前に走ってきたり横に走り過ぎたりするんだけど、カメラはしっかり固定されている。

    ─高畑さんは、主人公の視点からだけ世界を見ているようなアニメについてあちこちで批判的に述べていらしたと思います。主人公の視点のみで捉えられた主観的な世界では、主人公はなんでもできます。観る人はその主人公に自分を重ね、映像にどっぷりと身をゆだねる。そして束の間現実から開放される。一方高畑さんは、一歩下がった視点から世界を見ている。奈良さんの言う固定カメラというのはまさにそういうことですよね。カメラをちょっと引いたところに置いて、『火垂るの墓』だと、風景とか他の大人とか、彼らを取り巻く世界のなかに兄妹を置いている。
    奈良さんが先ほど言っていた、弱いものに安易な夢を与えないっていうのも、だからではないでしょうか。主人公だけの主観の世界なら、主人公が願えば妹を生き返ら せるというありえない夢も実現できるかも しれない。でも高畑カメラは本人を離れた 場所からひとつの世界を見ているから、自 分がヒーローになって、妹も生き返って、 みたいな少年の願望がかなうことはない。

    奈良  本当はそういうことを見せることが 真面目な優しさで、簡単に夢を与えないと いうことが、実は夢を現実化させる力を持 つということだと思うんですよね。あと 『火垂るの墓』に関していうと、そこは戦 争の現実を知っている世代の感覚が許さな い、というのもあるのかもしれません。

    ディテールとリアリティ

    奈良  戦争で思い出したんですけど、先日手塚治虫文化賞特別賞を受賞したちばてつや先生の『ひねもすのたり日記』(小学館、2018年)という作品があって、表紙に満州から引き上げてくる船上でのちばさんの自画像が描かれているんですね。ランニングシャツや帽子が破れていたりする、あのリアリティというのは大陸から引き上げた人にしかわからないものだと思う。でも、それをその経験のない自分が感じられるというのはすごい絵の力だなと。

    ─その、実際には知らないことを絵を通して感じさせることができる、という問題は、さっき少しだけ出た、アニメーションならではのディテールとリアリティという話に関係するとっても重要な点ではないかと思うので、ここで改めてしっかり考えたいと思います。
    まず奈良さんの作品で考えてみますね。あまり知られていませんが、奈良さんは子ども時代の記憶が並外れて鮮明ですよね。特に、ここに道があって、ここに門柱があって、門柱の名前も読める、みたいに、空間的な記憶がそこを歩き回れるぐらいはっきりしています。
    でもその奈良さんがそうした記憶を活かしながら作品を作るとき、子どもの後ろの空間にものをほとんど描かないですよね。子どもの背後には茫漠とした色の面があるだけで、そこには家の姿も木の姿もない。そもそも奈良さんの描く子どもだって、ふつうの人間とはまったく違うプロポーションです。だから、主役の子ども、背景、どちらもまったく「実物」っぽくはない。それなのに多くの人が奈良さんの作品を観て「この気持ちわかる」と感じます。奈良さんの作品は、今日のいろんな絵画動向のなかに置いたとき、個人の感情に訴えかけて共感を呼ぶ力の強さが際立った特徴です。
    一方の高畑さんですが、アニメーションで描くことなんてそれまで誰も考えなかったようなディテールを描くことで知られることは言うまでもありません。その高畑さんがずっとやりたくて、『山田くん』で手を着けて、『かぐや姫』で集大成したのが、主人公の輪郭も閉じていなくて、周囲の世界も白くかすれているような、やはり「全部を描かない」手法でした。

    奈良  それは記憶の解像度の種類の問題だと思う。記憶は経験を通して引き出しが作られ蓄積されていくわけですよね。それを呼び覚まそうとするときに、全部もれなく覚えているという物理的な解像度だけではなくて、精神的な解像度というものがあると思うんです。
    例えばいろんな経験や記憶や知識がたくさんあって、それを星座のように少しずつ繋いで物語を作るとする。でも、あまりにも星がたくさんあるからなかなかつながっていかなくて、完成するまでにすごく時間がかかる。それでもようやくつながったとき、他にたくさんあってつながらなかったものがフッと消えて、つながったものだけが星座のように強く見えてくる。つまり本当に大切なものが残って、そうではないもの、たくさんの他の星はいらなくなるわけですね。でも、残ったものだけをつないだからといってスケールが小さくなったわけではない。もともと無数のものがあった広大な世界の端から端までがつながった感じですね。この星座作りと同じように、なんでもよく覚えているというのとは違う、残ったものだけがすごい実感をもって伝わっていく精神的な解像度というものがあると思う。

    ─ご自分の作品でも同じことを感じますか?

    奈良  そこまではないなあ。しいて言うとオリオン座の真ん中にある三つ星くらいしかつながらない(笑)。でも、いろんなところを旅したり、花を植えたり木を育てたり、そういう制作とは関係のないいろいろなことがつながるときはあるんですよね。
    そういう精神的な解像度の高さが高畑さんの頭のなかにもある。それが共通しているなと感じられると、それだけで信頼してしまう。自分のわかっていることを本当にわかってもらえている感覚というか、あるいは自分のわからないことも、高畑さんの作品に入っていくことでワーッと広がるように教えてもらえるような、そういうふうに感じられる作品はあまりないんです。にぎやかな娯楽ものなんかを観ても頭のなかを素通りしていくだけだから。ところが高畑さんの作品は、なかにはいっていくといろんなものを与えてくれる。それこそ自分のなかに解像度の高いディテールを増やしてくれる。たとえば『かぐや姫』を観たときなどにもそう感じました。
    ただそうやって高畑さんにディテールを増やしてもらいながら、僕自身はまたバックになにも描かない絵を作るわけですね。そのことによって、描かれているものがより豊かになる気がしているんです。

    ─つまり、まず経験と記憶によって無数の星を蓄積する。これがディテールの基礎になる。でもリアリティというのは、それらのディテールを全部使って何もかも細かく描くことではなく、必要なものだけを残し、不要なものは沈めたところで逆に強く生まれてくる。そういうことなんでしょうかね。奈良さんが高畑さんに共感するのは、何に焦点を当てるかのセンスが似ているからなのか、それともたくさんのものから選ばれたものでリアリティを作るやり方が似ているからなのか。どっちでもあるのかな。
    ちなみに先ほど言っていた、役に立つか立たないかわからないのに勉強を続ける学者タイプというのは、この、常に星の数を増やしている人のことを指して言うんでしょうね。

    奈良  そうですね。増やしても結局つながらないものもたくさんある。でもつながったときには本当に奇跡的にいい作品ができる。そういう作品が自分にも何点かあって、そういうものとそうではないものとの違いは自分のなかで歴然としているんです。
    高畑さんは映画を作るのにものすごく長い時間をかけていたけれど、そうやって何年もかかって完成させたときのそのつながり方というのはやはりすごい。『かぐや姫』が一番時間がかかったのかな。

    ─『山田くん』も相当かかったと聞きました。確か、仮に上映を一回やったところで余白の感じが違うからと、一からやり直しになったとか。

    奈良  『山田くん』も何回観ても面白いよね。『かぐや姫』は胸にくるものが多すぎて次の日もう一回観ようとしてもできないけど(笑)、『山田くん』はそれこそ余白のおかげだと思うけれど、いろいろな発見があって、余白と余白のあいだに自分で考えることのできる部分がある。すべては描かず、人に自分で考えさせるというクッションがとても機能している作品だと思います。

    ─『山田くん』で私が好きなのは、のの子がショッピングセンターで迷子になるエピソードです。「もしかしてのの子一人で先に家に戻っているかもしれない」って家族全員あわてて帰ってきて、家中を走り回って探す。お兄ちゃんののぼるはあわててついポチの小屋を蹴っ飛ばしちゃう。でも、そのまま走り去らないで、一回たたた っ て 戻ってきてポチに「ごめ んごめん」ってあやまるんです。役者さんだったらそこは自分でやってくれますが、アニメってコンテ作って秒数指示して絵を描いてもらわないとできないですよね。そんな面倒なことをやっているにもかかわらず周りは真っ白です。おかげでそのディテールだけが前面に浮かび上がって、もうそこだけでのぼるのお人よしな性格がはっきりわかります。

    奈良  たしかに大変ですよね、実際の作業をする人は(笑)。でもそれが浮かんだら、それがすべてなんだよね。それで思い出すのは夢の話で、夢のなかでディテールって実は見ようとしないと見えないんですよね。意識のなかでつなげて見えているようにしているだけで細かいところは本当は見えていないはずなんです。真っ白ななかで意識によってディテールをつないでいる。この点で『山田くん』は夢の構造に近いと思う。『かぐや姫』も、姫が急に浮いたり移動のスピードが速くなったり、いろんなことがすごく夢の構造に似ているような気がしますね。

    ─そうか。先ほどは星座で喩えたけど、夢のディテールとリアリティのあり方も似ているんですね。『かぐや姫』でも、姫が小さな姿から赤ちゃんになり、すぐに少女になりって一人の人間がどんどん変わります。ひとりの人のはずなのに途中で違う人に入れ替わっていたりして、でもそこに矛盾を感じない、みたいなことが夢には多々ありますよね。

    奈良  でも、あの時代ってまだ竹が日本になかった時代ですよね……当時の竹は笹みたいなものだから、かぐや姫ってこんなちっちゃいのかなあと思っていたんですけど。

    ─それは高畑さんが「真竹だからいいんです」と、たしか言われていました(笑)。

    奈良  岩手県から北はいわゆる竹が自生していないんですよね。青森県で育った僕は子供のときに竹を見たことがないんですよ。家の近くにあるのは笹で、それが童話の絵本なんかだと大きく描かれているので、これは子供のために大きくデフォルメしているんだと思っていました(笑)。

    絵が見えている人

    ─高畑さんはもちろん世界的に知られた方です。でも、ふつう一般には宮崎さんの方がはるかによく知られている気がします。理由の一つは、アニメーション映画の監督、演出、という職業のわかりづらさではないかと思うんです。

    奈良  ああ、そうですね。宮崎さんは絵を描くから、すごくわかりますよね。絵を描く人がアニメーションの監督をやっている。自分の顔も絵で描くし。

    ─でも高畑さんはご自分では絵を描かない。『幻の「長くつ下のピッピ」』(高畑勲・宮崎駿・小田部洋一、岩波書店、2014)という本に載っている高畑さんの「字コンテ」を読んだんです。普通は絵コンテというぐらいだから絵で描く。宮崎さんの『風の谷のナウシカ』なんかがそうですよね。でも高畑さんのはそれを文章で書くんです。「枕の上にピッピの両足がニュッと突出している。親指がピクピク動いて、両足が親指で話し合う」で始まって、延々続くんです。

    奈良  それは大変ですよね、周りが(笑)。

    ─それを読んで、高畑さんは絵は描かない、つまり描く回路が頭から手にはつながっていないんだけど、頭のなかにはとても高い精度で絵が見えていたんじゃないかと感じたんです。
    もう一つ例を出すと、高畑さんは『一枚の絵から』海外篇・日本篇(いずれも岩波書店、2009)という美術の本を書いていらっしゃいます。これらを読むと、絵の見方がふつうの「描かない人」とぜんぜん違うんです。多くの「絵が好き」なだけで自分では描かない、という人は、まずは描かれた主題や作者の人生に反応します。ところが高畑さんは、色と形をどう組み合わせるか、それはなぜか、どんな効果がほしいからなのか、等々、自分でも絵を描く人が他の作家の技を盗もうとするみたいな視点で文章を書いているんです。 奈良さんは言うまでもなく頭のなかの映像を手によって絵の形に出力することができます。わたしも一応美術大学出身なのである程度できます。だけど、もし高畑さんが、はっきり頭のなかに絵を持っていて、おまけに他人の作品を観る分にはまるで自分で絵を描く人のように詳細にヴィジュアルイメージを読み取れるのに、それを自分自身の手で形にできないのだとしたら、なんだかもどかしくてつらそうだなあと思ってしまいます。
    だからあんなふうに文章で端から端まで記述するし、それを的確に絵にしてくれる人をいつも探しているのではないかと思えます。

    奈良  それは「この人だったらできる」という人がいてはじめて、高畑さんもそこまでのディテールが書けたんじゃないかという気もするんですよね。もしそういう人がいなければ、書いてはみてもそこまでのディテールは伝わらない。でも高畑さんは長いあいだ仕事をするなかでそういう人をちゃんと見つけていて、その人ならポンと渡すともうわかる。その人も高畑さんのやってきたいろんな仕事を見ていて、すでにいろんな知識と経験を共有しているだろうから。たとえば『かぐや姫』の作画の田辺修さんにお会いした時、この人は本当にもう全部高畑さんの言うことがわかっていて、高畑さんも田辺さんにこう言ったらどんなふうな絵にしてくれるかわかっている、そんな感じを受けましたね。
    黒澤明の絵コンテなんかを見ていると、映画とまったく同じなのでびっくりするんですよ。その絵コンテの力でカメラマンなどを全部コントロールできたんだなあと。だから絵コンテを描けないほうが、もしかしたら協力してくれる人たちの力を引き出すのかもしれない。つまり、高畑さんと絵を描く人たちがひとつの共同体として、考えを共有して作っていくやり方ですよね。

    ─作る側が、こっちの方がもっと面白いんじゃないかと違うアイデアを出すことができる。

    奈良  それは職業的なプロのやり方じゃないから時間はかかるけど、でも時間がかかっても、できたときにはいいものができる。スタジオジブリの技術は素晴らしいけど、奥に見えるものが少ない作品もあるし、すごく深いのもある。だから実は技術はそんなに大切じゃないのかなと思ったりすることもあるんですよ。高畑さんは絵が描けないから、技術をもっとあげようとか思わずに、深さのところだけを伝えることができたんじゃないかと。

    ─奈良さんはアニメーターではないけれど、プレヴェールの詩集の時は、高畑さんが、奈良さんは自分の頭のなかにあるものを絵にしてくれる人だ、と思って探し当てたんだ、ということかしら。

    奈良  そう思われているとしたら、それはとても光栄です。

    ─これまでの話で出たように、一見つながらないことを観たり聞いたりするためにものすごい時間を費やすこと。主観カメラじゃなくて固定カメラで世界を捉えていること。弱い者に目を配っているんだけど ありえない夢は与えないこと。「わかる」 とリアルに共感させるのに描かないものが たくさんあること、等々、誰かに何かを伝 えるための仕組みがこの人はどうも似てい るようだから、自分の頭のなかに見えてい るものをビジュアルにしてくれるだろうと、 そういうところで高畑さんは奈良さんを見 つけたんでしょうね。

    奈良  どうなんだろう。でも、なんで僕なんだろう、ほかの人とどこが違うんだろう と考えたとき、少しだけそんな気はします ね。

    ─あとは、先ほどから言っている「わかる」というリアリティの、その「わかり方」かなあ。たとえばわたしは徹底的に知的な興奮を感じさせてくれるコンセプチュアルアートが大好きです。でも奈良さんの作品を観るときはちょっと別の回路を使っている感じがあります。理詰めで意味を読むことはできないんだけど感情を直撃されるような。たとえばこの間奈良さんの作品とコレクションを展示する「N's YARD」におじゃましたとき、女の人の顔がついている島が水の中を進んでいく小さなドローイングがありましたよね。

    奈良  原稿用紙に描いたものですね。

    ─あれがなぜだかよくわからないけれどもとても生々しくて。自分の体がすごく大きくなって、後ろに重い島を引きずって、冷たい水をざわざわと掻き分けて進んでいく感覚が突然立ち上がりました。高畑さんも、文章を読むとなにごとにも理知的で論理的な方だと感じます。でも『かぐや姫』なんかには、突如姫が桜の下で喜びを爆発させるような、遺伝子レベルで春が来て花や鳥や虫の生命が芽吹くことへの喜びが暴走するような部分が現れたりします。

    奈良  どこか通じているなと思えるのは、そういうところなのかなとも思います。 あとはドローイングの持つ力をどう考えるかって問題もありますよね。いま例に出た 僕 のドロ ーイングは、 ボールペンでヒョッと描いたやつに色鉛筆でチョチョッて色をつけただけのようなものでしょう。
    だけど作者にとって価値というのは、かけ た時間も画材がなにも関係ない。一般論で いうと、キャンバスを使っているとか絵の 具をたっぷり使っているとかサイズが大き いとか、そういうことの方が大切になって しまう。でも一番自分にインスピレーショ ンを与えてくれるのは、完成されたタブ ローよりも小さなな紙切れに描いた落書き だったりするわけです。少なくとも自分は、 表現者にとって一番大切なのは将来残って いくであろうタブローではなく、メモやはしがきなんじゃないかという感じをずっと 持っています。完成されたものって、鑑賞 者にとっては素晴らしいものに成りえるだ ろうけれども、作者にとってはそんなに意 味を持たないんじゃないかと。

    ─『山田くん』や『かぐや姫』が線描きと白いところだらけの背景を用いたのには、絵コンテのときの線の走りみたいなものをそのまま活かしたいという理由が強くあったんですよね。ドローイングが持っている初発の力、勢いというものが、均一な線で描くセル画にしたとき失われてぺたっとしてしまう。それをなんとかしたいと。
    昨日改めてこのインタビューのために『かぐや姫』のDVDを観て、続けて『じゃりン子チエ』を観たんです。『じゃりン子チエ』も大好きなんですが、『かぐや姫』の後だとすごくぺったんこに見えてしまった。

    奈良  『かぐや姫』の場合は描かれていないものを僕らが自分で補うからこそ、その世界のなかにぐっと入っていけるんですよね。『じゃりン子チエ』はすべて描かれている分、補わなくてもいい、テレビを見ている感じに近いかな。
    でも『かぐや姫』はそれこそ映画館に行って、目の前にすごく大きなスクリーンがある感じになる。自分の身体ごとそのなかに入っていける。それが重要な違いだと思います。

    ─前に出てきた主観カメラと固定カメラの話に戻って喩えると、主観カメラのほうがふつうに考えるとその世界にどっぷり入っていきやすいですよね。だって現実を忘れて主人公(カメラを通して世界を見ている主体)に感情移入しやすいですから。でも高畑さんのは、ときに弱いものが弱いまま放り出されるようなもっと現実に近い世界です。現実に近いというと、すべてを細かく描きこむことと間違えてしまいそうだけれど、高畑さんは、固定カメラで世界を一歩引いたところから冷静に捉えつつ、全部を描きこまないことで逆にディテールのリアリティを際立たせるという方法を取る。そしてその特別なリアリティが観る人の感情を直撃するとき、主観カメラとは違うやり方で「身体ごとそのなかに入っていける」世界が開ける。とても複雑だけど、奈良さんのおかげで少し整理ができて、ヒントがつかめた気がします。
    今日はありがとうございました。

    『ユリイカ』 2018年7月臨時増刊号 第50巻第10号(通巻725号)
    特集 高畑勲の世界