• 「Drawings: 1988 – 2018 Last 30 Years」展に寄せて

    さて、ドローイングについてちょっと書いてみよう。

    幼い頃を思い返せば、鉛筆一本で描くことが好きだった。鉛筆一本で何でも描けていた気がする。でも、子どもはみんなそうかもしれない。描く場所はどこでも良かった。授業中や、学校帰りの道端、もちろん家の中でも描いていた。それは学校の授業で描かされる水彩画のようなものとは違って、なんだか自分が言いたいことや思ったことを、言葉や文字にするような感覚で描いていたように思う。時には文字も付け加えたりしたが、絵日記とも違っていた。そんなふうに描いていたものが、自分にとってはドローイングの原点であり、今も続いているドローイングという行為なのだろう。

    自分とドローイング、その関係。自分がどんなふうにドローイングと付き合ってきたのかということ。学生だった頃から今までの30年間をここに俯瞰するように見てみようと思う。その時の気分や思うこと、瞬間に浮かんだアイディアや、文字と共に描きとめてきたもの、ただただ鉛筆を持った手の運動という類のものもある。それはいろんな手法というか、ただただ息をするように、その時そこにある鉛筆やボールペンで描かれている。

    美術学校で習うような表現方法とはちょっと、いや、かなり違う。そんな子供時代からの延長にある表現。言葉で上手く表現できなかった、いや、言葉よりも描いた方が思っていることを気持ちよく伝えられるはずだ、という独りよがりの確信に満ちて描かれているドローイングたち。それを30年というスパンで展示するのが今回の個展だ。

    美術史の中で自分はどんな位置にいるようになるのだろう?いや、そういう歴史には残らないかもしれないし、そういうところから離れたところで描かれるのが自分にとってのドローイングなのだとも思う。当たり前に個人的で、以前に有名な批評家から指摘された感情の白痴的な垂れ流し(それのどこが良くないのか?)であり、しかし時に冷静に描き留めていたりもする。

    そうなのだ、息をするように描いていた。メモするように描いていた。考えるように描いていた。そんな30年間だった。そして、31年目も、32年目も、そんなふうに描いていくのだと思う…のだけれど、実は、描くよりも歩いたり、撮ったり、はたまた書いたりすることが多くなっていく気もしている。だからこそ、こうして30年分の自分の吐息をさらすこと、すなわち自分でも確認せざるを得なくなる展示は、とても意義のあることなのだ。

    溜息から吐息、叫びや欠伸まで、タイムマシンに乗って出会うように、いろんな自分に挨拶しようと思う。

    「冷凍保存された俺の気持ちたち、久しぶりだな!でも、解凍はしない!お前たちの仲間を増やしていくだけだ。」

    「Drawings: 1988 – 2018 Last 30 Years」展に寄せて
    Kaikaikiki Gallery 2018年