• 「絵に描かれるもののために」描く / インタビュー

    「アートシーンだけで生きていない自分を広げる。それが大切な気がする」

    展示の仕方は、無意識の結果


    編集部(─以下同) いつもそうですが、奈良さんの展覧会は作品だけでなく展示の仕方にも新鮮な驚きがあります。今回の豊田市美術館での個展も最初にレコードジャケットや影響を受けた本を並べた部屋があったり、さまざまな趣向が凝らされていました。展示を考えるとき、どんなプロセスでイメージが固まっていくんですか。


    奈良 絵を描くとき、ものをつくるときは、たいてい自分のスタジオで1人でつくるんだけど、それを展示するときはそれぞれの場所にあわせて展示プランを考えます。最初に建物の特質を頭に入れ、現地へ行って、なるべく展覧会をやっていない休館日とかに空っぽの建物の中を歩き、どこに何を置こうというイメージを思い描く。一度現地に行ってしまえば、わりと展示プランはすぐ決まるんです。その後は、図面上である程度まで詰めていくこともできます。


    ─空っぽの建物を前にして最初に思い描く展示プランとはどういうものなんですか。


    奈良 頭の中に大まかに描かれたイメージで、ライティングとか床から何センチの高さで展示するとか、そういうことはまったく考えずに、だいたいここ、だいたいこのへんという感じ。で、実際にその部屋に来るべき作品が置かれてからは「ちょっと上げてみてください」「あっ、そこ」って、あんまり測ったりしないで、どんどん決めていくんです。


    ─奈良さんの目線が基準ということ?


    奈良 そうそう。だから他人からはすごく適当にやっているように見えるはずなんです。今回の展示会は、けっこう作品の量が多かったんですが、だいたい2日間の作業で展示を終えているし、そのプラン作成は1日で決めました。ほんとに簡単にやっているように見える……というか、実際、簡単にやっているんですよ。ただ、簡単になるまでに、やっぱり年月の積み重ねがある。最初に展覧会をした頃は、もうちょっと右かな、左かな、いや、もうちょっと上かなとか、そういうちっちゃなことを考えちゃう時期がありました。でも、あるとき、何が大切かということを考えたときに、1センチ、2センチの差というのは大したことじゃないと気づいて、ガンガン決断してやれるようになりました。


    ─今回、豊田市美術館での展覧会が実現した要因のひとつには、建築家の谷口吉生さんが設計された建物の魅力もあったと聞いています。奈良さんから見た豊田市美術館の魅力はどんなところにあったんですか。


    奈良 豊田市美術館は90年代の建築の代表的な作品になると思うんですけど、簡単に言うと、普通の四角いビルみたいな造りではなく、動線がアプローチを使って移動していくんですよね。僕は1階、2階、3階を使っているんですけど、1階から2階に上がるにも移動する。2階から3階に上がるのも移動する。3階に上がってからもまた動線がグルッと回ったりして。そういう入れ子状態になっている感じが心地いい。で、一番広い場所が、真ん中の2階の部屋なんです。あそこがメインになるのはわかったので、何か一番大きいものを置こうという単純な発想から入って、小屋を展示することにしました。


    ─そういうイメージをわずか2日間で組み上げてしまうというのは驚きです。


    奈良 一番大切なものというのは、たぶん展示を完璧にすることではなく、もっと違うところにあると自分は思っているので、ある意味、こだわらないで、展示がサササッと進んでいくんです。


    ─その一番大切なものというのは、どういうものなんですか?


    奈良 それは絵を描いていたスタジオの中ですでに完成されたものであって、たとえば誰かの家の居間にあっても、床の間にあっても、美術館にあっても変わらないようなもの。そういう強さを持ったものができたのであれば、それこそ10センチ、20センチ、展示の場所が動いても変わらないということです。


    ─今回の展示では、一部屋一部屋の空間のバランスやそれらが連なったときの大きなリズムの心地よさのようなものを、すごく意識されているように感じました。


    奈良 最初のほうの部屋はわざと壁を大きく空けて、絵が少なく、距離があるんですけど、それは単なる余白ではなく、絵が「ない」ということを展示するという感じなんです。ないものを展示することによって、あるものに集中させるというか。
    初期の作品は、若い頃にしかできないことをやっているんですけど、やっぱり今の自分が見るとちょっと恥ずかしかったりする部分がある。若さの良さはあるんだけど、未熟なものが見えてしまうので、そういう意味で一つの作品に集中して見られるより、空間全部で何かを感じとってもらいたい。1対1というよりも、1対空間みたいな感じ。


    ─学生時代の頃からのドローイングをギュッと凝縮して収めた部屋はまさに空間全体が一つの作品という感じでしたね。


    奈良 そうそう。人が見るとどう見えるかわからないけど、僕は恥ずかしいので、なるべくそういう感じでごまかしてます。一番最後の部屋の最近の作品になると、けっこう面と向き合っても大丈夫だなと思うような絵が描けてきていたので、見に来てくれた人が作品一つ一つと1対1で向き合えるような空間になっているかと思います。
    でも、これは今、あらためて説明しているから、そういう意図を説明できるけど、実際の展示プランの段階では、ほとんど無意識でやっています。たぶん三十何年、ずっと展覧会をやってきたことが、無意識でやらせてくれている感じがあります。

    ─展示される作品を選ぶ段階では、どういう基準で選ぶんでしょう。

    奈良 今、この時点というのが自分の人生の中で最先端にいるわけじゃないですか。そのときの自分が恥ずかしくないと思えるものを選んでいく。もし自分が30歳ぐらいだったら、また違う感覚で「これだ!」というのを選んでいるかもしれないけど。そのときにしかできなかったものとか、そのときに偶然できたものとかを選んでいます。こんな感じでできたのは、これが「最初の1枚目」かなというのを選んだり。2枚目、3枚目じゃなくて。

    ─「最初の1枚目」っていいですね。自分の作品を形づくってきたオリジンみたいなものを全部出していくという感じなんですね。

    奈良 よく人に、いつも同じものばかり描いていると言われるんだけど、確かに子供や犬とか同じものなんだけど、一番新しいものと一番古いものを比べると全然違うわけじゃないですか。その違いが見せられるような展示というのは意識しました。同じ時代であるけど、この絵とこの絵はまったく違うでしょ、とか。同じ構図で描いている後期の絵も、同じ構図だけど、全部違うでしょ、みたいな。そういうことを感じとってもらえるように選んだつもりです。

    より多くの人に見てほしいという欲はまったくない


    ─先ほど初期の絵を見るのは恥ずかしいとおっしゃいましたけど、昔の絵を選び直す、振り返るというのは、やはり、あまり精神衛生上よろしくないものなんですか。


    奈良 そうですね。たとえば初期の頃に、ナイフを持った子供とか、怒った子が登場してくるんだけど、僕に関するインフォメーションを更新していない人たちは、今もそういうものを求めている。だから、昔の絵がどこかのオークションに出たりすると「手にナイフを持っている女の子」というだけで値段が高くなっちゃうんですね。逆に言うと、そういうものを描いていればそれなりに売れていく。だけど、やっぱり、それが描けた時期と描けない時期があって、もう、そういうのは僕は描けないので。

    ─描けないというのは、そういう時期は終わったということですか。

    奈良 やはり多少は大人になって、我慢することを覚えたり、本当に反抗するときは直情的ではなく、もっと話し合って強かに解決するというようなことも覚えてきた。振り返れば、絵を描いていく中で自分はどんどん考えるようになって、大人になっていった。だから当然、描けなくなっていくものもある。でも、それは決して才能が尽きていくとか、そういうことではないと思っています。

    ─高畑勲監督が(ジャック・)プレヴェールの詩を集めたCD「私は私、このまんまなの」をつくったときCDジャケットに使わせて頂いた少女の絵もナイフを持っていました。あの絵は今回も飾ってありますね。

    奈良 あれも90年代初期に描いたものですね。当時は描くということに対して苦労したという記憶がないんです。感情の赴くままに叫ぶというか、テクニックではなく、そのときの自分が衝動のもとに筆を握ったから生まれたようなもので。

    ─その描き方は、ひとつの理想なんですか。

    奈良 いや、そのときはやっぱり若いから、感情のままに描き散らかすみたいな感じです。すべてにおいて先のことも考えずに、毎日の暮らしの中で描き散らかしていました。

    ─2007年に製作されたドキュメンタリー映画(「奈良美智との旅の記憶」)の中で、東京から引っ越されるときに荷物を整理されていて、「人とやるのはすごく楽しかったけど、何か自分がやわらかく、ふやけてしまって、固く引き締まる機会を失ってしまって、これはあまり良いことではない」とおっしゃっていたのが印象に残っています。

    奈良 それは今でもなんとなくそう思いますね。

    ─その感覚と先ほどおっしゃったナイフを持ったような少女が描けなくなったというのは、完全に通じるものではないと思うんですが、どこかで重なる気もします。横浜と弘前で巨大な個展をやりきったあとで、2007年に奈良さんは陶芸のほうに行かれた。自らが獲得した社会性と自分の作品を生み出している孤独や疎外感との間で、常に揺れているという印象があります。

    奈良 そうですね。人が手伝ってくれると、任せられる部分が出てきて楽になる部分はあるし、仕事の幅も広がる。小屋をつくってみたり、巨大な展示会場をつくってみたりと広がっていくんだけど、つまるところ誰が一番真剣にやっているんだと言うと、あたりまえだけれど、自分なんです。もちろん、みんな真剣につくってくれるんだけど、その終わりに「今日1日終わった。乾杯」ってビールを飲むことのほうが楽しかったり、あるいは自分探しみたいに、何かわからないけど、こういうところへ来たらなんとかなるんじゃないかと思って手伝いにきたり。
    こっちは誰かの一つの失敗で、自分が積み重ねてきたものが全部崩れるかもしれない。でも、みんなはそういうことをまったく考えていない。どれだけ一所懸命働いてくれていても、そういう責任感は持ちようがない。そこらへんで、自分に作家としての次のステージがあるとしたら、このままではそこには行けないんだなと思って。やっぱり今まで自分がうまく成長できたポイントというのは書籍であるとか映画であるとか音楽であるとか、そういうものを1人で吸収して高まっていったとき。実際に人に手を引かれるというものではなくて。
    それが人といるといろいろなことをしてもらえる。自分にとっては、無駄なことを自分でする時間を持つことが、やっぱり物事を考えられる原点になる。書家が墨を磨るところから始めるのと同じように、キャンバスを張る作業はずっといつも1人で組み立ててやってきたんです。それって、スポーツ選手が試合前にウォーミングアップするのとたぶん同じ感じなんです。
    とはいえ、人と仕事をすること自体が僕は嫌いなわけではなく、他の分野であっても真剣になにかをやっている人と出会うのは楽しい。だからそういう人と交わっていく人生に惹かれます。ただ、惰性になっていくのは良くないのかなと。

    ─今回の展覧会というのはなにかの節目みたいな意識を持たれているんでしょうか。愛知県で学生時代の思い出がある場所というのも含めて。震災のショックから回復されるときにもずっと滞在していた場所だということもお聞きしたんですが。

    奈良 この展覧会自体の話は実は偶然なんですよ。最初は、名古屋市のどまんなかにあるすごく立派な愛知芸術文化センターという権威あるビルの美術館から話がきて、そこでやるのがめっちゃいやで(笑)。それを断る理由として、豊田市美術館みたいなところだったらやりたいと思うんだけどと言ったの。それは街から離れている距離感であったり、建築自体が持つすばらしさから、ちょっと頭に浮かんだすぐ近くの美術館の名前だったんだけど。

    ─それが実現してしまったわけですね。

    奈良 しかも、断ったときの館長さんが異動になって、豊田市美術館に(笑)。あのときこう言われましたよねと言われて。でも実際、豊田市美術館は建築もすばらしいし、あえて大都市でやらないことを人に見せたかったので。

    ─じゃあ、東京のような場所ではあまりやりたくないんですね。

    奈良 東京ではあまりやりたくないですね。実際、これまで東京では2004年に品川の原美術館という、個人邸宅だったところを美術館にした場所を使って展示をしたくらいです。自分の世界をつくりあげる個展は自分の身体感覚にフィットしないとできないんです。
    それでも90年代の半ば以降、ドイツで昔の工場跡をスタジオにしていた影響から、絵のサイズがどんどん大きくなってきたんです。今、住んでいるところも、絵を描く場所は天井の高さが6、7メートルぐらいの大きなところなんですよ。それが生活の中に入っているから、作品もそういう大きさになっていく。だから、大きな絵を展示したいという願望はある。でもただ大きいだけの美術館とかは、なにかが違うんですよね。

    ─ある意味、多くの人が来られて、より多くの人に見てほしいという欲はあまりないということですね。

    奈良 まったくないですね。だから1000人が来るとしたら、そのうちの500人がすでに1回展覧会を見た人であるとかのほうが好きです。実際、今回の豊田での個展はリピーターがすごく多いんですよ。そっちのほうがうれしいですね。美術館側が何万人来ましたということを気にかけるのはわかるけど、数じゃないんです。宣伝しないでも、ほんとに自分で見たいと思った人がどこかでアンテナを立てて、キャッチして来てくれるというのが理想で。みんな行ってるから行くとか、学校の先生に行けと言われたから行くとか、そういうのはあまり好きじゃないです。自分が好きな俳優やミュージシャンが好きだと言っていたから見に来る人とか、そういうのもちょっと違うなと思う。

    ─来場される方との、どういう関係性が理想ですか?

    奈良 絵とか関係なく、今までいろいろな人に旅先とかで出会ってきた。そういう人が個展の存在を知って、「あっ、この人はこういうことをしている人だったんだ」という感じで絵を見に来てもらえるというのが、理想と言えば理想です。うまく説明できないですけど(笑)。

    ─すでに社会化された「奈良美智」ではなく、できるだけ個的で純粋な動機によって絵を見に来てもらい、そこで関係性が深まればいいということですね。

    奈良 僕は言葉でうまく説明できないし、説明していると何を話しているかわからなくなったりする。だから、絵や立体物をつくります。踊りや音楽など、いろいろな表現法があるけど、その中で自分が一番「ああ、これが俺だ」と思えるのが絵を描くことや立体をつくることなんです。百語るより、一つ作品を置いて見てもらうほうがわかる人にはわかる。言葉を尽くしてもわからない人には絶対わからないし、わかろうとしない人もいるし、拒絶する人もいる。でも、その中で少しでもわかろうと思ってくれる人、興味を持ってくれる人が実物の絵を見て僕をわかる。同時にそうやって絵を見てくれる人は、その人自身をも再発見していく。そういう関係性を結べればいいなと思います。

    修行のように描いているペインティング


    ─今の話にも通じますが、今回30年間の作品をまとめて見て、年代を経るごとに奈良さんの絵が求める、見る側とのコミュニケーションの深度が深まっている気がしました。

    奈良 うん。たぶんすごく深くなっていると思うんです。初期の絵は、それこそナイフを持っていたり、睨んでいたり、キャッチーと言えばキャッチーで消費されるという感覚が強い。見る側もある種刹那的に「私もこうだった」とか「わかる、わかる」で終わってしまう。今の絵はポージングがなくなって、ほんとに正面を向いているだけの絵が多い。そこでその人が入っていけるか、いけないか。入っていけたら、その人自身の深いところを見ることにつながるだろうし、何かがちょっと変わると思う。

    ─今回グッズ売り場があったので、ポストカードを買ったんです。初期の絵は展示物との誤差があまりない。でも最近の「春少女」(2012)であるとか最後に飾ってあった「Midnight Truth」(2017)はポストカードでの再現性が低い。たぶん同じサイズのポスターでも本物の良さは伝わらない気がするんですよね。

    奈良 そうそう、そうなんですよ。

    ─特に「Midnight Truth」の前にずっと立っていると、だんだん顔が歪んできて、笑っているんだか、怒っているんだか、泣いているんだかわからないような不思議な感覚を覚えます。ようするにプロダクト化されることを拒否しているというか。

    奈良 そうですね。本物を見るすばらしさというのはそういうところにあるなと自分は思っていて。自分の作品に限らず、やっぱり本物じゃないと伝わらないもの。印刷とかでは絶対伝わらないものがあって、それこそ出かけていって見るべきものなんじゃないかなって思う。それは別に絵に限らず、風景とかでもそうだろうし。

    ─これまではグッズに対してもこだわりを持っていたように思うんですが、その辺の考え方も作品とともに変化しているわけですか。

    奈良 グッズや画集を出す大きな理由のひとつには、絵を買ってくれる人がほんとに絵を愛しているかどうかわからないということがあります。僕が若いときは僕の絵はすごく安くて、普通にみんなが買えるような値段で売っていたんです。僕の名前なんて全然知られていないし、僕の絵が飾られている画廊という場所は、好きな人しか来ないような場所じゃないですか。そこで気に入った人が買う。その関係は健全でした。でも、そのうちどんどん絵が流行るようになって、お金持ちの人が、今これが流行っているらしいぞ、買うんだったら今のうちだとか言われると買っちゃうんです。

    ─いわゆるコレクターですね。

    奈良 そのうちにもっと絵が高くなっていって、今度は流行っているからという理由ではなく、これは今ちょっと高いけど、数年後にはもっと高くなる。そのときに売れば儲けになるぞということになる。そういう人たちは買っても倉庫の中に保管しておくだけで見ない。どんどん絵が売れるようになればなるほど、そういうことが起こってきて、そのときにほんとに俺の絵を好きな人というのは、絵を買えない人に多いんじゃないかと思うようになって。実際、展覧会でも、ああ、ほんとに好きなんだな、もしかして、俺より俺の絵を好きなんじゃないかという人がいるんですよ。そういう人たちのためにという気持ちはありますね。

    ─売れてしまった結果、本当にその絵を求める人との距離が離れていってしまうというのは皮肉なことですね。

    奈良 うん。でも絵を描くことは楽しいからやるとは思うんですけど。ただ、最近は苦しみながら制作する感覚が増えてきて、昔ほど楽しくないんですよ、制作していて。

    ─どうしてですか?

    奈良 どんどん修行をしているような感じになっていて。自分の絵画の世界、ものをつくる世界が少しずつ深まっていっているという実感はあるんだけど、何も知らないでやっていた頃のほうが楽しいことは楽しい。1日中描いて、夜が明けて、力尽きて、バタッと倒れ込んで寝るみたいな。そういう充実感は今はなくて。ある意味、修行者のような、サディスティックなものに対するマゾヒスティックな快感はあるんだけど。

    ─修行というのはどういう感覚なんですか?

    奈良 将棋や囲碁みたいに、一手先、百手先みたいなことを考えながら描くようになって。

    ─自分が描いているものの先の手が見えちゃうということですか。

    奈良 うん。子供が自由なのは、そのときだけで絵を描いている。自分も90年代の作品はそういうものがすごく多い。もちろん子供よりは何年も生きてきたから、描く線というのがちゃんとできて、描きたいものがスッと出てきたりしていたんだけど、スッと出た良さはその年齢にしかなくて、今そういうことをしても悪さしか見えてこない。絵というのはもっと色とか、筆致とか、いろいろなものが組み合わさってくるものなので、その組み合わせを何手先とかまで考えながらやっています。それが刹那的な感情とうまくリンクしたときに絵が完成する。そういう感じになってきていて。

    ─根源にある感情は変わらないわけですね。

    奈良 そうですね。最後の部屋にあった「Midnight Truth」なんかは、そういう感覚がうまく合った作品。あのシリーズはバックを暗くするシリーズと考えて、ニューヨークで発表した個展に出したものなんですけど、あの絵が1枚目なんです。1枚目でやりたいことができちゃって、その後は、あの絵に比べるとちょっと落ちるかなというのしかできてこなくて。

    ─個人的にはやはり正面向きの少女像の「夜まで待てない」(2012)も好きです。

    奈良 あれも昔描いたものを消して、何度か描き直したものなんです。

    ─瞳の奥行きを描くようになったのはいつからなんですか。奈良さんの絵で瞳の奥行きを描くって、すごく大きな変化ではないかと思うんですが。

    奈良 やっぱりナイフとかが消えていった時期なんですよね。わかりやすく怒ったり、睨んだり、ナイフのような小道具がなくなっていって、代わりに描かれているもの自体がすでに持っている目であるとか髪に色を入れていって。

    ─生身の強さを求めた結果、自然にそうなったと。

    奈良 そうですね。でも目に描き方があるわけではなく、全部ちがう描き方になっているんです。方法論にならないように、決まった描き方にならないように、いつも気をつけるようになって。それまでのナイフを持ったり、ドラムのスティックを握ったりしている子たちは、描き方はほぼ同じなんです。目の描き方も同じ。だからある時期からバリエーションみたいになっちゃって、それが自分の可能性を閉じ込めている感じがして。もっと何か開けていない扉があるんじゃないか。開けてみて、なかったらあきらめればいいって、苦しみながらも描いていって。もちろん失敗作も実はいっぱいある。失敗作もあるんだけど、たまに成功するとすごくいいものができてというのが、今も続いている感じかな。

    ─ペインティングが修行の場だとして、ドローイングはどうなんでしょう?

    奈良 ドローイングはいまだに楽しいし、ほんとに刹那的な、そのときそのときの気分や感情で描ける。線がひん曲がっていても気にしないし。絵(ペインティング)だとそれが気になって、全部直していくわけです。

    ─立体物はどういう位置づけになるんですか?

    奈良 あれはまた別で、職人のおもしろさとクリエイターのおもしろさが一緒になっている。とくに陶器でつくるときは、中を空っぽにして土偶みたいにつくらなければいけないので、ほんとにつくりたい形がすぐにできるかというと、そうではなく、ある程度の職人的なものが必要になってくる。その中で自分を抑えながら爆発させなければいけない。それも半分修行みたいな感じがして。自分の暴走を自分で止めていくというか。気持ちではここまでつくりたいんだけど、そこまでつくっちゃうとグシャッと潰れちゃうから乾かしながら少しずつ積み重ねていく。そういうことをしながらも、今度は全部塊でつくってもみる。潰れる心配がないから、自分の暴走をそのまま暴走させるように塊を削っていったり、手で引っ掻いたりしながらつくっていく。それが東日本大震災後につくった大きな顔のシリーズですね。

    ─「絵を描くことが修行みたいになった」っていう言葉が、すごく気になるんですけど、具体的にはいつぐらいからどんな感じでその感覚が深まっていったんですか。

    奈良 2001年に横浜で大きな展覧会をして、日本で美術界デビューをして、友達に「そろそろポルシェを買うんじゃないか」とか嫌みを言われはじめた頃かな(笑)。プレハブの風呂なし、トイレは外で隣の工場と共同なのにすごくファッショナブルな暮らしをしていると思われて、インテリア雑誌から取材依頼がきたり。なんかみんな勘違いしているなという違和感が強まっていったのが2000年代の真ん中あたりからですね。同時に人と関わる機会が増えて、浮かれていく自分を抑えたり。今でもお酒を飲むと浮かれて、よく失敗します(笑)。

    ─留学したドイツ時代の孤独の中で培われた創作の根本が、日本で持ちあげられる空気の中でぶれてしまうのを警戒されてきたわけですね。

    奈良 子供のときに絵を描くのが好きで、小学校の低学年の頃、親が働いていて、兄貴たちが年上で、家へ帰ってきても誰もいなくて。近所に年の近い子もいなくて、1人で絵を描いて遊んだりするわけ。そのときって遊び相手が絵なんです。誰に見せるためでもなく、自分に見せるために描く。よく誰かが絵を描いているのを脇で見ていて楽しいときってあるじゃないですか。それを一人二役で、お話をつくりながら描いていく感覚。

    ─自分が描いた絵に自分がのめり込んでいく。

    奈良 そうそう。紙芝居みたいのをつくって。裏が白紙の広告を親が全部とっておいてくれて、そこに絵を描きながら物語をつくったりしていましたね。小学校高学年以降は普通の子供に育って、もっとみんなと遊んだりしていくんだけど。
    絵を描くようになって、また自分で自分を確かめるように、自分に語りかけるように顔を描いていく。最近はキャンバスが鏡みたいに見えて、そこに自分の顔をなぞっていく。なぞりながら対話するというか、気分がすごく高まったときのことを思い出したり、悲しかったことを思い出したりしながら、鏡に映る自分の顔をクリアにしていくような感じで何か始まる。ある程度顔ができて、「ちょっと腹減ったから何か食いに行くかな」と思うと、絵に対して「あっ、悪いな」と感じる。あっちは動けないで、自分だけ動く。「ごめん」という感じ。そういう気持ちになると、だいたいそれが完成するなという予兆があって。
    自分を写して描いているんだけど、どこかで人格ができていて。もう僕はこれをコントロールできないみたいな。早く完成させてくれと向こうが言っているような。そういう意識がありますね。だからやっぱり誰のためにではなく、自分のため。あるいは「絵に描かれるもののため」というのが一番近いかもしれない。だから形にしてあげなきゃという義務感が途中から出てきて。

    ─「絵に描かれるもののため」って、すごくいい言葉ですね。

    奈良 それがなんかありきたりな自己模倣した絵になっちゃうと、向こう側にいる人が出てこられないんですよ。たとえばそれが「夜まで待てない」の元の絵で、それを消して描き直すことで、ほんとの姿を出してあげるわけです。

    ─ドキュメンタリー映画で実際に描かれている現場を拝見したとき、本当に何度も線や色を重ねられていて、最初に描き始めたものとできあがったものがまるで違うことに驚かされました。あのとき脳内では「絵に描かれるもの」の姿を探る作業が始まっていたんですね。

    奈良 描けないときは、わざと自分を真似して描く。自分を真似して描いて、そのうちに真似していることに耐えられなくなって消していく。消すときに何かが見えてくる。その瞬間を逃さないで描いていく。それで描いては消すという作業をよくします。

    ─ただ呆然と待っているわけではないんですね。

    奈良 そうですね。やっぱり何かこう、自分の力を信じているところがあって。

    展示の中心の2階の部屋のこと、立体物のこと


    ─8月末に新宿の紀伊國屋サザンシアターで高畑勲監督と対談されたとき、今回の展覧会で一番大事な「心臓」は2階の部屋だとおっしゃっていました。あの空間について、いくつか聞かせてください。あそこに展示された小屋は、創作集団のgrafがつくられたんですか。


    奈良 みんなでつくりました。金沢でつくったんですけど、grafと僕とボランティアで参加してくれた金沢美術工芸大学の学生たちとでつくりました。

    ─確か小屋の屋根の上に乗っかっているお月様は「休んでいる」という表現をされていましたね。あれはどういう意味なんでしょう。

    奈良 子供のときって、月がいつまでたっても追いかけてきたり、パッと見ると違うところに動いていたりした。もしかして、自分が家の中にいるときは疲れてどっかで休んでいるんじゃないかと思ったことがあって、それがヒントになっています。

    ─部屋の隅に置かれた、小舟に乗ってうつむいている、ちっちゃい人形も印象的でした。

    奈良 あれは90年代にドイツにいて、木が余っていたから彫ったものです。あの空間の中ではあの人形が自分ですね。月があって、家があって、あの小屋の周囲には非常に親密な空間があるんだけど、あんなちっちゃなボートに乗った女の子が端っこにいて1人孤立しているわけですよね。自分の行く先がわからず、不安な状況でも舟は進んでいく。でも、よく見ると一応その舳先は月と小屋のほうを向いている。だから希望を捨てていない……というようなことは、あとからわかるんです。最初は適当にやるんですよ。これでいいやという感じで。でも、あとで理由が見えてくる。あの彫刻がちっちゃいから、逆にまたお月様が大きく見えたり、あれが等身大だったら、たぶんあの空間の世界観がもうちょっと人工的なものになっていると思う。

    ─あそこの部屋を「心臓」とおっしゃったのは、どういう意味ですか。

    奈良 あれはTwitterで誰かが展覧会の感想を言っていて、そうなんだなと自分で思って(笑)。あそこがすごく吸引力のある部屋だというのは自分でもわかっていて、他の部屋は全部、通り過ぎることもできるんだけど、展示数が少ないわりにあそこだけは人が溜まっちゃうんですね。だからやっぱり中心はあそこになるなと思って。

    ─あの部屋に飾られている3枚の絵「Emergency」(2013)と「FROM THE BOMB SHELTER」(2017)と「HOME」(2017)には、これまでの作品にない新しい雰囲気を感じました。きわめてシンプルな線で描かれているのに、世界に広がりがある。
    「FROM THE BOMB SHELTER」と「HOME」は2017年の絵、つまり最新作ですよね。

    奈良 そう、つい最近ですね。自分にとっては新しいスタイルの作品なので実はまだそれほど自信がないんですよ。

    ─「Midnight Truth」が重厚に練りこまれ長編小説だとすると、「FROM THE BOMB SHELTER」と「HOME」はギリギリまで言葉を削ぎ落とした詩や短歌という印象を持ちました。

    奈良 ああ、わかります。

    ─この二つの表現は奈良さんのなかで、どういうバランスで機能しているんでしょう。

    奈良 やっぱり「Midnight Truth」のようなヘビーなタイプの絵は、自分自身が描く作業もヘビーなんです。絵に自分を持って行かれちゃう。自分自身の何かをごっそりとえぐり取られる感じ。それと対峙すること自体が先ほど言った修行みたいになっている。
    新しいタイプの「FROM THE BOMB SHELTER」と「HOME」は、もともとはいらなくなった資料の裏にボールペンで描いていたりする。何か思いつくたびに描いて、溜まった中からいいものを選んで、これを描こうとやっているだけなんです。

    ─アニメーションや漫画の世界でよく言われることですが、キャンバスに写し直すとき、最初の落書きの中にあったビビッドな感覚が消えてしまったりはしないんですか。

    奈良 そのままピッタリ写すわけじゃないですから。ここの線はいらないとか、もうちょっとこっちを大きくしてみようとかアレンジしていくわけです。
    「HOME」は広島の原爆被害の記録映画があって、その映画を見ながら文章を書く人がメモをするみたいに、シャシャシャッと描いたシリーズの中から選びました。「FROM THE BOMB SHELTER」のシェルターから出て来る女の子は、長崎のシェルターから子供が出てきてニコッと笑っている写真があるんだけど、そこから生まれました。

    ─あれは表情といえるような表情がないのに、すごく深みを感じる絵ですね。

    奈良 僕自身も気に入っているんですが、自分ではこんな簡単なのでいいのかなと不安になるんです。作業自体は簡単なんですよ。線を引くだけだから。やっぱり何度も筆を置いて完成させた絵じゃないと価値がないんじゃないかとか考えてしまう。自分も好きだから展示しているわけだし、自分の手許に残しているんだけど、自信がないんですよ。でも、今回の展覧会で、あれをいいと言ってくれる人がいっぱいいて、だからこれでいいんだと思って。もう修行しなくてもいいかなと思ったり(笑)。でも、あの線で描くだけで絵が成立するようになるまで、結局30年かかったということなのかなと。

    ─今回の展示の中で大きな立体物としては「ハートに火をつけて」(2001)と「Fountain of Life」(2001)があります。両方とも印象深い作品ですが、立体物というのは奈良さんの中ではどういう位置づけなんでしょう。

    奈良 絵を描くとき下書きしないで描くんですが、立体物も下書きしないでつくり始めます。「Fountain of Life」のヒツジみたいな顔も発泡スチロールを削って原形をつくるんですが、最初に耳があるとかも考えずに、何も考えないでつくっていく。あれはもとは身体もついていて、歩いている人形だったんです。その顔があまりにいい感じだったので、顔だけ別に型どりして何個かつくって、大きなコーヒーカップと組み合わせました。
    「ハートに火をつけて」は東京藝大の彫刻科の先生から「学校に来て、みんなの中で仕事ぶりを見せてもらえないか」と言われて。1カ月ぐらい通って、みんなが脇で制作している同じ部屋でつくったものですね。好きな木をくれると言ったので、ひとまずつくり始めてみたという感じで、つくりながら形が見えてきた。木は楠です。
    基本的に、全部思いつきなんです。思いつきなんだけど、一貫した変わらないベースになるものがある。思いつき自体はいろいろな思いつきがあるじゃないですか。その中で自分から出た必然的な思いつき。自分のライン上にある思いつきだけをどんどん汲み取っていく。「すげえ、これをやったらブームになるな」みたいな思いつきがあっても自分に合ってなかったらパスみたいな。そういうやり方です。

    小さい奇跡が起こる


    ─『ユリイカ』(2017年8月臨時増刊号 総特集 奈良美智の世界)に「半生(仮)」という題の文章を書かれていましたが、文章を書く作業は好きなんですか。

    奈良 うーん、面倒くさいけど、やっているうちに自分で自分がわかってくるので。起承転結があるわけでもなく、ちょっと書き出してみると「あっ、そうだったのか」ってわかってくることがあるんですよ。最近、無意識にやっていることにもすべて理由があるということがわかってきて、無意識でやっているままでは自分でも忘れてしまうので何か文章にしていく。すると、自分でも自覚していなかった発見があるんです。
    たとえば今回の展示会で「ハートに火をつけて」が置かれた部屋がありますよね。木彫の向かい側に原爆が片目に映った女の子(「Missing in Action -Girl Meets Boy-」2005)がいて、右手の壁の上の方に双子の女の子の絵(「Twins」両方とも2005)が2枚並んでいる。あの木彫は実は村上隆さんがオークションで購入された物なんです。それで、村上さんが僕についての文章を書いたときがあって、「僕と奈良さんは異母兄弟のようなものです」って書かれているんですね。2人の立ち位置は違うけど、同じ頃に世界に出てきてやっているという意味で。
    で、村上さんがだいぶ前にニューヨークで企画された「Little Boy」という展覧会があるんですが、そこに僕の作品も展示されているんです。そこにも村上さんが買った木彫「ハートに火をつけて」があって、その向かいに広島市現代美術館が持っている、原爆が光った瞬間が片目に映っている女の子の絵(「Missing in Action -Girl Meets Boy-」)がある。落とされた原爆のコードネームは「Little Boy」というんです。で、村上さんと僕は異母兄弟のようなものであると。僕はその言葉を双子みたいに捉えていたんだけど。

    ─ああ、だから、あれらの作品があの空間に集まっているんですね。

    奈良 あっ、そうだったのかと自分で思ったの。最終的にはあそこが聖堂的なイメージになって、ちょっと敬虔な気持ちになるのね。だから、無意識でやっているんだけど、そういうふうに、どこかに全部つながりがあって、どこかで最後には何かがちゃんとかみ合うようにできている。その行為を行っているときの僕はたしかに考えていないけれど、どこかで考えてくれている自分がいて、そういうことを発見したときはすごくおもしろい。それは絵を描いているときや、ものをつくっているときにもよく起こることなんです。

    ─つまり、奈良さんの場合、展示会のプランを組み立てるときも絵を描くときも、あらかじめテーマやコンセプトのようなものを決めて意識的に組み立てるのではなく、無意識に誠実に従ったほうが正しい形に導かれるわけですね。

    奈良 絵を描くときでも写真でも文章でも、いつも目の前に意識的なテーマがあるわけではなく、普段描き溜めているものが、すでに大きなテーマの下にある。何というテーマかわからないけど、それはたしかにあるんです。それが溜まっているときに展覧会をしませんかと言われると作品を選べるんですね。でも、先にテーマを言われるとダメなんです。

    ─文章もそうなんですね? では、日記みたいなものですか?

    奈良 そうですね。写真を撮るのも好きで、いっぱい撮るんだけど、基本的に撮りたいときだけ撮ってるんですよ。描きたいときに描くみたいに。写真家の人を見て違うなと思ったのは、みんなテーマがあって、いろいろなところへ行って撮ったりとか、モデルを使ったりとか、最終的に写真集ができるところまで考えていたりする。でも、僕はまったく考えていないので、今、ここにある写真の中から「犬」という写真集をつくりましょうと言われればできるけど、これだとちょっと足りないから、あと10枚くらいこの次に来るものを撮ってくださいと言われると、できないんです。そこまでの写真はなにも考えていないからこそ撮れていた写真で、そこからの10枚は自分がテーマに沿って管理して、もう1人の自分が撮るわけです。それは全然違う人が撮っているのと同じになってしまう。

    ─創作のときは管理している自分の力をできるだけ消したほうがいいわけですね。

    奈良 そうですね。だから、展覧会があるんだけど、絵が1枚足りないから、その1枚を描いてと言われると、急に難しくなってきて、3、4枚ぐらい描かないとその1枚が出てこない。それが他のプロの人とは違うなと思っていて。だから正直言うと、いい作品と悪い作品の差が自分はすごくあると思う。

    ─自分から見て?

    奈良 あります。「Midnight Truth」なんかはもう描けないと思うし。やっぱりどこかでまぐれが起こってできている感じがして。

    ─逆に言えば、常に小さい奇跡みたいのが起きていないと、ちゃんと作品にならないという感覚がある。

    奈良 うん。それを起こすためにわざと作品を壊したり。すると意識していない自分が出て来ざるを得なくなって補修していく。で、しめしめと思ったり。

    ─今の話を伺うと、今回選んだ作品の基準の一つもその小さい奇跡がちゃんと起こっているものを集めたという言い方ができそうですね。

    奈良 そうですね。同じような絵柄でも、そこになにも起きていない全然ダメなものもいっぱいある。6時間、7時間ずっとぶっ通しでやって全然ダメで、最後に潰して、もう寝るかということろで、もう1回やろうかなって描いて、突然うまくいって終わったり。偶然できた線が後頭部だったのに、これがおでこだったらメッチャいい絵になるなと思って、それをおでこにしちゃって描くときもある。右向きが左向きになることも普通にあるし。それがやっぱり自分が知らない自分を引き出してくれているんです。

    絵をやめても、いろいろな楽しいことをして暮らせる自信が最近はある


    ─お話を聞いていると、月並みな言葉ですが、自分のすべてを掛けて、ある意味で命がけで絵を描いているようなところがあるんですね。

    奈良 いや、そこまで絵に命をかけていると思わないんだけど(笑)。

    ─え? 違うんですか?

    奈良 絵をやめても、いろいろな楽しいことをして暮らせる自信が最近はあるので。

    ─それは意外ですね。たとえば、どういうことをして?

    奈良 9月に「飛生芸術祭」という小さな芸術祭があったんです。北海道の白老町という、苫小牧と室蘭の間にある町で、昔からアイヌ民族の人たちが住んでいたところなんですけど、そこに飛生という地名があって、ほんとに山の中にあるんです。
    世帯数が10世帯で、人口が30人程度の集落。牧場やら鉱山やらが転々として、厳密には集落と呼べるほどのまとまりもない。そこに飛生小学校という学校があったんです。大正時代に鉱山が発見されて飛生に労働者が住むようになるんですが、第一次世界大戦後に一旦は閉山してしまいます。そして太平洋戦争後にまた開拓団が入山して、その子供たちに義務教育をしなきゃということで、ちっちゃな教室を1個建てて、そのうちにもうちょっと人が増えたので、みんなで教室をもう1個増やしてやっと校歌もつくり、さらに、ちっちゃな体育館ができたというような学校なんです。
    それが鉱山が衰え、人がいなくなって、昭和61年に廃校になるんですね。廃校になった後に、そういう自然豊かなところをアトリエにしたいと、札幌在住の彫刻家の方(国松明日香)が自分の仕事場にする。そこに家具や漆器なんかの工芸家も来て、何人かで借りて協同アトリエにする。その犠牲になったのが(笑)、その人の子供で、小学校の3年の国松希根太くんなんだけど、無理矢理連れてこられても飛生小学校は廃校だから、そこからさらに十何キロ離れた森野小学校というところに2年間通う。そこは同級生が2人しかいなかった。そのうちの1人は転校しちゃって、2人だけで運動会の駆けっこ。どっちが1位か、ビリかみたいな、そういうところで暮らして。その2年間、札幌から転校してきた彼は、すごいカルチャーショックを受けて。その後、札幌に戻るんですよね。
    彼はお父さんが彫刻家だったこともあって、高校を卒業した後に多摩美術大学に行くんです。で、美大卒業後に札幌に帰ってくるんだけど、あれだけカルチャーショックを受けた飛生に戻っていくんですよ。そして彼はそこを使って父の代からのアートコミュニティを活性化するべく「飛生芸術祭」という自分たちの作品の成果を発表する場所をつくり出したんです。
    たぶん2009年ぐらいから始めていると思う。校舎の中や外で作品を展示し、土日を利用した音楽イベントが加わって、みんなテントで泊まりながら、土日だけ楽しんで帰っていく。実は僕、そこに去年参加して、今年も参加したんですよ。飛生アートコミュニティでは小学校の裏にあるかつての学校の森を再生しようとしていて、自分も森づくりに興味があったので、とりあえず実家に帰ったときに、近いから行ってみたんです。
    行ってみたら、ちょうど1カ月に2回、森の整備をみんなでやるんだけど、その日に当たっていて、整備し終わった後のバーベキューをみんなでやるのに交ぜてもらったんです。秋にその芸術祭があるというので、自分でつくった短いアニメーションを見せて何かトークをしますと約束して。で、秋に行ったら、みんなすごく歓迎してくれた。
    そのキャンプでびっくりしたのが、ほんとに家族連れが多くて、何が少子化だと思うくらい子供が多いんです。そのときはまだゲストという感覚だったので来年はもっとちゃんとやりたいなと思って。今年は1カ月前から行って滞在して、学校の教室を一つ展示室にして、そこでつくったものを展示しようと思って。実は一昨日戻ってきた。

    ─そうだったんですか。つまり、そこでの体験が奈良さんを変化させたわけですね。

    奈良 うん。滞在し始めて1週間経って、森をみんなと一緒につくりながら絵を描き出した。キャンバスを持っていって、そこで絵を描き出したんですけど、なんか違うんです。自分の家で描いているのとそんな変わらない。だったら自分の家で描いて送ってもいい。そっちのほうがもっと絵が早く、楽に描ける。で、どうしたらいいかなと思って、学校の倉庫とかをうろついているうちに、昔使われていた粘土が出てきたんです。粘土が乾ききってカピカピになっていて、なんかわからないけど、これに水を入れて、もう1回練り直して、粘土を復活させるところから始めて。そしたらなんか絵と違って、空間やら周りの自然やらが自分に味方してくれるような感じになって。そのうちに森づくりを手伝ってくれている人たちの子供が遊びに来て、子供たちと粘土遊びをしたりして、なんかこう、その教室に受け入れられていく感じがして。
    そのうちに森づくりのみんなが、森づくりの後に余った木を燃やすんだけど、そこでできた木炭を使って絵を描くのもいいんじゃないかと思い始めて、大きな紙を買ってきたんです。
    誰もいなくなった廃校に、もう1回子供たちの姿があったらどうだろうと思って。今まで30年以上描いてこなかった、「現実の子供たちを見て描く」というやり方をしてみたんです。1メートル80センチの紙にバンと描いて、それを教室に飾り、粘土で作った立体物も4つか5つ飾った。あと子供が描いた絵も飾ったり。
    そうやっているうちに、いつの間にかアウェイでもゲストでもなく、ほんとにみんなの仲間になった感じがして、最後には森づくりのみんなや芸術祭のスタッフたちとすごく仲間になった感じがあって。
    そういうことが、だから絵を描かなくてもいいかなという気持ちにもつながっていて。長い間いろいろなことをしてきて、こういうところに行き着くんだなって。なんかわかんないけど、すごく心が揺さぶられたんですよね。

    ─そのような活動を続けていきたいという気分になっているんですか。

    奈良 なっていますね。北海道は札幌国際芸術祭もこの夏に開催されていて、そういう行政がお金を出すものが日本中ですごく起こってきているんだけど、そういうものとは根本的に違う。それこそ顔の見える人が来る。顔の見える人とつくる。それが自分にとってほんとの協同作業じゃないかなとか思えるところがあって。
    コミュニティの中心人物である国松(希根太)くんは、飛生にいつもいて制作している。イベントが終わった1カ月後に行っても彼はいるわけですよ。
    たとえば僕もロック関係とかの野外フェスに行ったことはけっこうあるけど、終わった後に行くと全然違う風景なのね。そこに、いつも一抹の寂しさを感じていて。

    ─通り過ぎていくものですからね。

    奈良 そうそう。ところが飛生は廃校になった小学校があって、隣の教員住宅に彼が住んでいて、ブランコが1個あるんだけど、子供たちはそこでブランコに乗っていたり。なんかね、いつ行っても決まった誰かがいるということ、そこで暮らしている人がいるということが、他のところと違うんですよね。行政主導の芸術祭でもいろいろな空き家を使ったりするけど、終わるとなくなっちゃう。そうじゃなくて、継続して存在する良さ。大きなことばかりではなく、小さいことの良さ。決して全国から人を呼ぼうとかじゃなく、町民や近隣から人が来て、それがほんと、すごく良くて。

    ─朝日新聞デジタルの8月25日掲載のインタビューで「震災以降、どこに絵を持って行っても場所に関係なく絵に対峙できるようにしたいと思った。土地に関する作品を作るのもいい考えだとは思うが、僕はどこに持っていても大丈夫なものがあるんじゃないかと思う」とおっしゃっていたんですけど、今の感覚は、そこからさらにまた変化していますね。

    奈良 うん。だからそこの土地で何をつくるか。たとえば飛生だとアイヌの歴史や開拓の歴史を参照してもいろいろなことができるわけですよ。でも僕がしたことはそういうこととは関係なく、実際そこが学校であった痕跡から粘土を探したり、子供と遊ぶ中から、みんなの肖像画を描いて、教室に子供を復活させようという、あくまでもパーソナルなアイディアが生まれてくるわけです。そこを土地の歴史や民俗学的なところからアイディアを探ろうとすると、表現が学問的になっていく。

    ─先ほど言った、テーマが決まってきてしまうわけですね。

    奈良 そうそう。だから僕は別に飛生という場所じゃなくても、そこの小さなコミュニティに入っていければ同じようなことをしているわけですよ、きっと。

    ─サハラ砂漠でもなんでもいいわけですね。

    奈良 砂漠は大袈裟だけど(笑)、そうなんですよ。

    ─土地に縛られない作品づくりというのは、そういう意味だったんですね。

    奈良 うん。人や場所をつくるというのはこういうことかなと。いわゆるみんながやっている村おこしみたいなことではなく、自分の場合はこういうことかなって。俺はかつて見たまんまに絵を描くということもやっていたし、それを先生として教えていたこともあるのね。だからできるかなと思ってやったら、ほんとにできた。

    ─その子供たちの絵は今もそこに飾ってあるんですか。

    奈良 9月17日まで飾っていると思います。

    ─その後はどうなるんですか。

    奈良 その後はどうしようかなと思って。自分で持っておいてもいいんだけど、発表するためにつくったものではなく、一番はそこにいるみんなに見せたくて描いたものなんです。
    これに参加しようと思った一つの理由は、国松くんが「僕は飛生芸術祭をこれ以上大きくしたくない」と言うんですね。大きくしたくないけど、質だけを上げていきたいと。「大きくしたくない」というのが、すごく僕はいいなと思って。

    ─そこは奈良さんの新しいフィールドになりそうなんですか。

    奈良 場所って関係ないなと思わせるところがあって。地方に住んでいて、生き生きとしている人を見るのがとても気持ちがいい。そこに誇りを持って住んでいるというか、とくに戻る場所があると思って戻ってきた人たちを見ていると、何が本当にいいものかというヒントをもらえるような気がして。

    ─札幌でも彫刻家イサム・ノグチがデザインした札幌市のアートパークのモエレ沼公園とかは違うわけですね。

    奈良 美術の略歴的には、そういうところに入ってくると、きっとすごいなと思われるんだろうけど、そうではないものの中に本当に自分が必要としているものとか、自分を必要としている人がいるような気がして。
    たぶん高校生ぐらいの自分がいいなと思っていたのは、そういうものだった気がするのね。大人になるときに、近所の喫茶店に大学生が集まっていたり、狭い中でみんなの顔が見えていて、でも、それが前向きに未来に向かって行く、上がる感じがある。

    ─たとえばそういうところで創作するということまで考えているんですか。さっきみたいな子供たちの絵を描くというのは一つあるけど、今までのペインティングみたいなこともそこでやられる?

    奈良 行けば、それなりに何かできるような感じがします。教員住宅が2戸あって、1戸は違う彫刻家の方が借りているんだけど、そこが空いたら借りたい。今は那須高原に住んでいるけど、やっぱり夏でも暑いときは暑いので、これから身体も弱くなっていくと思うから、夏の間はそういうところに行って、やってもいいのかなとか思ったりします。そもそも俺、子供に教えるとか、一緒に何かするって、実はすごく苦手だったんだけど。

    ─そうなんですか。

    奈良 やったことないもん。そういう話が来ても全部断る。そういうことはできないって。

    ─なぜですか。子供が好きそうに見えますけど。

    奈良 いや、苦手(笑)。子供はわがままだし、うるさいし、ダメなんです。でも今回は知らない子供を集めてなにかするとかじゃなく、自然に一緒に遊ぶようになって仲良くなっていった。平気ででかいミミズとかをつかんで持ってきて、「ミミズは畑の神様なんだよ」とか言われて「はい」みたいな(笑)。

    ─単なる友達ですね(笑)。

    奈良 来てくれ、やってくれと言われたらできない。いろいろなことがそうなんです。でも何も言われないで自然にできることだったら、すごくいいことができる。

    ─その場所に今の時期にそんなに心が揺れたというのは興味がありますね。

    奈良 うん。しかもみんな美術の専門家ではなく、国松くん以外は漁師だったり、どこかで働いていたり、定年した人だったり。そもそも小学校に子供がいた頃は森にたくさんの鳥がいて、子供たちは全ての鳥の声を聞き分けることができて、北海道から「愛鳥モデル校」に選ばれたりしてたんですよ。そんな学校の森を再生するという旗の下にみんなが集まっている。

    ─奈良さんが経てきた変化の流れを言葉にしてみると、青森の幼少期に1人で絵を描いていて、ドイツに行ってそこでの孤独と疎外感が創作の根源となる。その後、東京に戻ってきて人と関わるようになり、自分がどんどん肥大化していくのを感じつつ、でも横浜や弘前の大きな展覧会が終わって一区切りついた段階で陶芸をやり始める。震災も含めて自分と向き合う時間が増えていく。そういうふうに個人的な部分が戻って来たような気がしたんですが、今の話を聞くと、またさらに違うステージに向かっている気がしますね。

    奈良 孤独や疎外感で作品がつくれたのは実家を出て東京に行ってからなんです。だから実は孤独でもなく、疎外感もなかった時期というのが高校生の頃の自分で、ちょっと年上の大学生とか10歳ぐらい上の先輩たちとロック喫茶をつくったりして、それがうちの町内の中のちっちゃなコミュニティだったんですね。それから、東京に行ったときに価値観の違う人がいっぱいいて、同じ美術をやる仲間ができても、やっぱり考えが違ったり。そこらへんから、だんだん孤独や疎外感というのが自分の中で生まれてきた。だからもともとは高校生のときのロック喫茶というのが小さなコミュニティだったと。今回、飛生に行って、僕がなにか感じたというのはその、コミュニティだった。

    ─なるほど。孤独と疎外感以前の感覚が蘇ってきたということですか。

    奈良 うん。そのときの感覚が戻って、すごく自分が自然にいられる感じになりましたね。
    飛生芸術祭ではほかにも嬉しい出会いがいくつかあって。ドイツにいたときに日本料理屋で皿洗いのバイトをやっていたんですね。僕がバイトをしていた店の裏側の日本料理屋で働いていた女の子が2人いて、北海道の子なんですけど、その子たちと二十何年ぶりに会って。

    ─連絡をしたんですか。

    奈良 うん、連絡をしたら来てくれて。僕より2、3年先に日本に帰ったのかな。彼女たちは東京へ行かないで、北海道からそのままドイツに来て働いていた。彼女たちは虻田郡喜茂別町にある実家に戻ってて、そこから来てくれて。

    ─感激ですね。

    奈良 あとは、講演したとき「高校生のとき、中学校の先輩と近くに下宿していた大学生と喫茶店をつくったんですよ」って思い出話をして、「そのときの大学生、札幌の人なんだけど来てないよね。いるわけないよね」って言ったら、「来てるぞー!」って声が聞こえてきた(笑)。

    ─えっ、それはすごいですね。

    奈良 びっくりしました。その彼、今は高校の先生やってて。なんかそういうことがまたおもしろい。たぶんこんなこと、美術の業界においては何の得にもならないし、何の話題にもならない。でも、どんな人にとってもそういうことって大切なことじゃないですか。つまりね、アートのシーンだけに生きていないというか、どれだけアートのシーンを自分の中でちっちゃなことにしていけるかってことだと思うんです。すると、それはやっぱり自分の人間性を広げて行くことで、人間性が広がるということは、そういう懐かしい人と会おうと思う心とか、時間差を超えてまた話せることとか、あるいは同じ目的のために力を合わせる。森づくりとか子供をみんなで面倒みるとか、そういうことが大切なんじゃないかなと。それを経たとき、自分の絵というのもまた変わってくるだろうし、他の表現をもっとするかもしれない。なんかわからないけどね。

    ─もはや作品を生み出す源泉は孤独と疎外感ではなくなってきているということですね。

    奈良 なくなってきました。あとはやっぱり日本の近代化の中でのアイヌのこととか、数年前からすごく興味があって。いろいろ調べていくうちにアイヌの人たちの話も聞くようになり、友達も何人かできてきて、その中でたまたま白老出身の人と仲良くなって。今は札幌にいるんだけど、今回もその人の実家で昼ご飯を食べさせてもらったり。そういえば10月に横浜で関東に住むアイヌの方々が中心となって開催するアイヌ感謝祭というのがあるんですけど、そこでなぜかトークをしてほしいと言われて。最初アイヌの人たちのコミュニティは閉鎖的じゃないかって思ってて、いくら自分が興味があっても近寄れないだろうなとか思っていたけど、いつの間にか一緒に儀式とかにも参加するようになって。

    ─まだまだ人生が豊かになりそうですね。

    奈良 ある意味、美術の世界とかはどうでもいいやと僕は思って(笑)。いいものを描きたいという欲はあるし、残したいという欲もあるんだけど、展覧会をしたいとかアグレッシブに何かしていきたいという欲はどんどんなくなってきていますね。

    ─青森のご実家にお帰りになることはないんですか。

    奈良 よくありますよ。とくに2009年に父親が亡くなってからは母親が1人で暮らしているので。兄貴たちも近くにいるんだけど、1年に最低2回、多いときは4回とか5回帰っています。で、母親からまたいろいろな僕の知らない母方の先祖のことや父方の先祖のこととかをいろいろ聞いて、エーッと思う。

    ─そういう巡り合わせが集まってくる時期なのかもしれないですね。

    奈良 そうですね。白老出身のお母さんが白老アイヌの方と仲良くなったのも、その人のお父さんがサハリン生まれでということで、Twitterでリプライをくれたのがきっかけです。なんか、あんまり祖父や祖母と仲良くした記憶もないので、知らないおじいさん、おばあさんでもときどき自分のおじいさん、おばあさんのように思って仲良くしちゃうことがあります。

    ─基本的に人が好きなんですね。

    奈良 自分から積極的に近寄ることはないけど、ちょっとでも仲良くなれたら、あとはどどど~っと(笑)。

    『熱風(GHIBLI)』(スタジオジブリ 2017年10月号 第15巻第10号(通巻178号))