• 再発見する宮沢賢治

    震災をきっかけに久しぶりに東北を廻ったんですが、岩手の風景は特別でした。やっぱりあの高原地帯はすごい。ほかの日本の風景とはまったく違いますね。ぼくはいま栃木県の那須塩原に住んでいて、そこも草原の広がる北海道的な牧場地帯なんだけど、岩手はそれ以外にも、京都、鎌倉、あるいは東京みたいな海外のひとが想像する日本とは違う国籍不明なところがあって、そういう風景を最初に見たのが岩手なんです。岩手に最初に行ったのは小学校の遠足のときで、ちょうどそのとき授業で『風の又三郎』を読んでいたので、高原の風景を物語と重ねるように、現実とは異なる世界のように感じました。そのこともあって、内陸から三陸海岸に出る前あたりの高原地帯を車で走っている時に、宮沢賢治のことをいろいろ思い出したんです。彼の作品には青森を詠んだ詩もあるし、草原の風景もよく出てくるからそういう記憶が一気に蘇ってきましたね。それで、家に戻ってから久しぶりに読んでみたら、見えてくる風景は前と同じなんだけど、若いときは草原のなかに入っていくように感じていたのが、いまは草原を俯瞰するように感じていて、自分も大人になったのかなと思いました。
    そんなふうに、震災と宮沢賢治が直接繋がったというよりは、久しぶりに目にした草原が触媒でした。けれども岩手が幸運にも被災していなくて、訪ねることがなかったら思い出していなかったかもしれない。そして宮沢賢治を想起した理由は岩手の風景を見たということのほかに、訪ねたそこでの人々の被災後のあり方もある気がします。無口に耐え忍ぶ姿や、自分よりもひどい境遇の他人を心配する姿。そういう、なにか大きな力の前には無力であるという暗黙の諦めや、それでもそこにある心に灯をともすような北国のひとのメンタリティからも宮沢賢治を感じましたね。宮沢賢治の自己犠牲みたいなものに通じる姿勢が本当の田舎に住むようなひとたちのなかにあるんだなと。ほかの地方だったらまた違ったと思うんです。ぼくは実家が青森なので、地元のお年寄りのことなんかを思い出すとやっぱりそういう自己犠牲や、天命に対する諦めのような農民的気質がありましたね。そういう地元のひとの様子も宮沢賢治を思い出した理由のひとつです。

    ぼくは中学校くらいからわりと洋物にかぶれていて、エスペラント語で名前をつけたりするような賢治のモダンなところにも惹かれていたんです。そういうことを地方でしていたというのがすごく面白かったんですね。ロンドンやパリに比べたら東京も地方なので、日本の東京と地方では何かしら物理的な差はあっても、西洋に憧れることにおいてはそこに精神的な差はないんじゃないか、日本の田舎であっても宮沢賢治世界のようなものが存在している限り、中央集権的な格差はなくなるんじゃないかと中学校のときに思ってほくそ笑んでいた記憶があります。東京でイーハトーブとか銀河鉄道とか言っても逆にカッコ悪いですよね。ちゃんとそういう思想の宿る場所という部分があるような気がして、そういう想いもあって岩手はちょっと特別な場所になりました。
    岩手にはそれほど頻繁に行くわけではないんですが、むかしは盛岡までしか新幹線が通っていなかったので、乗り換えついでにうろうろしたり、実家に帰るときに親と遠野で待ち合わせて一泊してから帰ったりしていましたね。実家への通り道なので、他県と比べたらわりと行っている場所ではあります。たとえば、賢治に縁ある場所にはミーハー的にだいたい行っています(笑)。高校を卒業して上京して、最初に帰郷するときに訪ねていったんですけど、地方から東京に出てきて、いままで憧れていた東京という都会に住むようになったことで、思い描いていた東京の素晴らしさよりも、逆に地方出身の自分が見過ごしていた地方という場の持つ空気みたいなものが実は東京のひとから見たら羨ましいくらい自分の体にくっついているということを再発見したんです。それに気づいて、賢治もここを歩いたのかなとか、俺も半分くらいは同じような感性を持ってるんじゃないかな(笑)みたいなことを思いながら誇りを持って歩きました。自分は賢治側の人間だといつまで経ってもそう思っていて、それは東北に限らず、地方に行くとよく感じますね。
    賢治自身も東京への憧れはあったわけですよね。東京に出てきても家に戻らなくちゃいけないという屈折があって、ほかにはない地方の誇りが確実にあるということを知りながらも東京に出ていこうとする。それには若さとかいろんな理由があったと思うけど、賢治も人間的に見たらきっとすごく素晴らしい人物という感じではなかったんだろうなとだんだん思うようになってきて、文学作品以外のことを考えたら人間として共通する部分に気づき出しました。コンプレックスもあっただろうし、理想主義に走る若さや、とんでもない理屈を唱えてみたりとか、そういうことを知るにつれてそれまでの自分とは違う次元にいる文学者というのではなくて、人間的なものが見えてきましたね。
    賢治の作品を集中的に読んだのは、上京したての十八歳、友達ができる前のひとり過ごしていた夜や、二十八歳で単身ドイツに行ったときですね。ドイツにはけっきょく十二年間いることになるんですけど、ドイツに行くときになぜか宮沢賢治全集みたいなのをバッグに詰め込んだんです。十代後半のときは自分自身にはバックグラウンドがまだ何もなくて、だから自分の近くにあるものに掴まっていないと、東京のような大きな街では溺れてしまうような気がして、それでまったく会ったこともないけど、ただ北国出身というキーワードだけで賢治を読んでいました。自分もそういうところで育ったというだけで、彼に自分を重ねて自身を保つというか、ロールモデルというようなかたち。それからちょうど十年後の二十八歳のときに読み返していて、さっき言ったように弱い人間としての部分も見えてきました。

    制作にも賢治の影響は大きいですね。ぼくはやっぱり現代の人間なので、音楽とか着てるものとか現代化されて育ってはいるけれど、心のなかには生まれたときから北国という場所で培われた感性みたいなものがあって、小さい頃に見てきた風景や記憶のある事柄は場所的に賢治とも共通するところがあるわけですよね。そういう賢治が持っていたような思想風景的な価値観を、都会でみんなと一緒に勉強していくなかで失ってしまって、ほかの価値観を植えつけられていた。それがドイツというまったくかけ離れたところにひとりで行ったことで、本来の –ぼくの場合は青森だけど– そこで培われた価値観を自分のなかに再発見したんです。そのきっかけはやっぱり賢治の本だったと思うんです。物理的な場所を越えてドイツまで来ても自分のなかには賢治と同じような何かがあるんだと思ったら、そのとき見ている風景が子どものときに見た風景と同じように見えてきて。もちろん建物は違うんだけど、緯度や気候の関係か、日差しとか雲とか、空気の匂いですよね。そんなふうに何か蘇っていくような感じがありました。でもいまから思うと、どうして賢治の本を持っていったのかわからなくて、不思議ですよね。
    いま読み返すと賢治の作品にはありきたりなハッピーエンドがないんですよ。それは世の中では当たり前のことで、そういう「ほんとう」のことが書かれているから、自分は賢治が好きだったんだと最近は思っています。ハッピーエンドは子どもの情操教育にはいいかもしれないけれど、人生の辛さを知り始めるとあまり興味を持てなくなりますよね。ぼくはもうハッピーエンドは嘘くさく感じてしまって、そうするとまた賢治の作品にリアリティが出てきて、むかしは嫌いだった話も実はすごい作品だったんだと。子どもの頃は『グスコーブドリの伝記』みたいなひとのために身を捧げるような、道徳の授業的なお話が好きだったんですけど、賢治も色々苦しんだり悩んだりしたんだろうなと思うと『なめとこ山の熊』とかそういう話にも惹かれるようになって。人間には動物を食べていかなきゃいけない、いま生きているのは何かの犠牲の上に成り立っている、であれば自分は誰のために生きているのだろうか、とか誰もが一度は感じるような生きていること自体への苦悩があって、そういう不条理がよくわかる童話ですよね。それは小さい頃はわからなかった部分というか、『銀河鉄道の夜』にしても幻想的なところばかり見ていて、本質みたいなものは見えていなかったと思います。ただ、賢治も何回も書き直しをしているから賢治が作品を書き直している時期とぼくが物語をわかるようになる時期はもしかしたら年齢的にダブっているような気もします。『銀河鉄道の夜』はいまでも好きな作品で、複雑な作り方をされていていろんなレイヤーがあるから、そのレイヤーをどう見るかで感じ方も違いますよね。

    ぼくは賢治の絵もすごいと思いますよ。子どもの頃に初めて見たときはびっくりしました。それまで文字を書くひとと絵を描くひとはまったく別だと思っていて、絵を描くひとは絵だけ描く、言葉を紡ぐひとは言葉だけを使うと子ども心に思っていたのが賢治の『月夜のでんしんばしら』の絵を見て「なんだこれは!」と思ったんです。その絵はぼくにとってすごくリアルな、ある種怖いものにも感じられて、しかもそれを作者自身が描いている。とても印象的でしたね。絵も単純にうまく見えました。それは技術云々というよりも、この人は見えないものが描けるんだと。美術をきちんと勉強するようになってから見ても、その感想は変わらなくて、オーラがあるというか……。賢治の絵には何か暗さがあって、暗闇のなかにいると明るい風景がよく見えるけれど、逆に明るいところにいると暗いところは見えない。たいていの挿絵や童話の絵は明るいところにいるひとたちが描いてますよね。賢治は暗いところにいて、暗いところも明るいところも見えてるんですよ。明るいところのひとから見えない、そういう暗い世界観を絵から感じたのを覚えています。明るい/暗いという考え方には都会/地方も関係しているかもしれないけれど、自分と同じ苦しみを持っているひとなんだなというのを文章を読んでも思ったし、絵を見ても思いましたね。そう感じるひとは多いと思いますよ。それでいて夢の世界に連れていってくれるような夢想家でもある、そういうところも惹かれる理由のひとつですね。

    岩手は北国だから冷夏になると、農業技術が今ほど発達していなかった昔は飢饉みたいになってしまうわけですよね。賢治はその対処策を科学的な根拠に基づいて勉強していて、科学的な対処もできるはずなのに、どこかうまくいかないその矛盾やさまざまな葛藤を抱えて過ごしていた。北国という環境はある意味負の磁場でもあって、今回の震災をきっかけに賢治が思い出されたのもそういうことが共通しているのかな。どうすればいいかわからないながらも走り回るしかない、あるいはじっとしているしかない。何かしてみても空回りしてうまく伝わらなかったり、それは震災後の状況に似ているのかもしれない。津波や地震と凶作の違いはあるけれど、そこから精神的に逃れるために夢を見る、それこそ『銀河鉄道の夜』じゃないけど、どんな苦しいことがあっても平穏な世界があるという夢と重なる部分もあるでしょうね。それから人びとが宗教的なある種の救いを求めている、もはや日本人は熱心な宗教家ではないから実際の宗教というよりも宗教的な救いのある文学に助けを求めているんだと思います。信仰心に支えられて書かれているものも多いし、賢治は楽しいときに読む本とはちょっと違いますよね。それにやっぱり東北というか、岩手という場所、イーハトーブが特別なんだと思います。

    『ユリイカ』 2011年7月号 特集 宮沢賢治 東北、大地と祈り