• 栄浜のこと

    栄浜(スタロドゥプスコエ)
    『銀河鉄道の夜』。その個性的な宇宙観を湛える物語をきちんと読んだのは、高校を出て上京したての頃だった。もちろん、子供の頃にいろんな子供向けの物語本のひとつとして読んだことはあった。ただ、その物語を読み解く、あるいは普遍的な物語として読むには、そこまで待たねばならなかったのだ。安アパートの小さな部屋の中、裸電球の下であればこそ銀河鉄道に乗車できたのだ。過ぎ去った故郷の思い出や優しい人々のことを、古いアルバムを開くように脳裏に思い返しながら、僕はページをめくっていたと思う。故郷の記憶は、どちらかというとほんの少し前のことであるはずなのに、故郷を離れたことで心の中で普遍的なものとなっていき、物語の中に入りこむ手助けをくれたのだろう。そして僕は、物語だけではなく、作者の人生をも辿るようになっていったのだ。

    宮沢賢治は二六歳の時に、彼の理解者でありミューズでもあったと思える妹トシ子を流行りの風邪で亡くす。『永訣の朝』である。そして翌年一九二三年の夏、花巻から汽車に乗り樺太に旅立つのだ。賢治の旅は、樺太の大泊に教え子の就職先を探す旅であったそうだが、あの世に旅立っていった妹を追う旅でもあったに違いない。花巻を出発し、岩手から青森に入り、汽車の中の賢治は『青森挽歌』を書く。その詩、いや心象スケッチは、すでに銀河鉄道へ乗り込むためのアプローチとなっている。

    こんなやみよののはらのなかをゆくときは
    客車のまどはみんな水族館の窓になる


    (乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷つてゐるらしい
    きしやは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)

    りんごのなかをはしつてゐる
    けれどもここはいつたいどこの停車場だ

     
    (中略)

    あいつはこんなさびしい停車場を
    たつたひとりで通つていつたらうか
    どこへ行くともわからないその方向を
    どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
    たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか

     
    (後略)
    『青森挽歌』より

    彼は青森から連絡船に乗り北海道へ渡り、さらに北を目指す。北海道の北端、稚内からまた船に乗り、樺太の玄関口である大泊に到着する。そこで先の用事を済ませた後、樺太鉄道に乗り終点、栄浜に向かう。それは当時の日本での最北端の駅だった。

    サハリンへの旅で、今はスタロドゥプスコエという名前になっている栄浜を訪れることに自分は興奮していた。スタロドゥプスコエは、ユージノサハリンスク日本時代の豊原│)ら北へ五〇キロほど行ったとても小さな村で、海岸を散策して運が良ければ砂の中に琥珀が見つかる。賢治が降りたであろう停車場はもう無い。駅舎はもちろん、プラットフォームも線路さえ無くなっていた。聞いた話によると一〇年ほど前には、少しばかりのレールが残っていたそうだが、今は駅や鉄道の痕跡をとどめるものは何も無くなっていて、視界に点在する民家と広い空き地が広がっていた。

    駅の在ったと思われる場所周辺を、トボトボと歩き回るしかなかった。轍のある未舗装の道路は、僕を青森の子供時代にタイムスリップさせる。道沿いに点々と、少し傾き加減に立っている古びた街灯の列は、日本時代のものだろうか。その街灯を見上げていた顔を下におろした時だった。朽ち果てかけた枕木らしきものが目に入ったのだ。それは、まさしく枕木であった。駅もホームもレールも、何の跡形も無いと思えた時、それはそこにあった。その発見にしばし放心してしまった。そして僕は、なんだか嬉しくなって地面から顔を上げて、大きく息をしながら周りを見渡した。するとその視界に、小さな自転車に乗ったロシアの女の子が現れた。反射的にカメラを向けると、その子はニッコリと微笑んでくれた。なんだか、時空や次元を超えて賢治の妹が、遠くからやってきた僕を迎えてくれたみたいだった。その時、一瞬ではあるけれども、そこに木造の小さな駅舎が見えた気がした。

    宮沢賢治は、樺太への旅で『春と修羅』に収められている詩『オホーツク挽歌』を書き、後に童話『サガレンと八月』を創作する。サガレンとは樺太/サハリンを意味する古い言葉の一つ。『サガレンと八月』は、栄浜あたりの海岸が舞台だと言われている。また、栄浜の近くには白鳥湖と呼ばれた大きな湖があり、『銀河鉄道の夜』に登場する『白鳥の停車場』は、白鳥湖の駅ではないだろうかと思ってしまう。僕が訪れた時、白鳥湖には陽の光が反射してキラキラ輝いていた。それは昼の世界でありながらも、夜の銀河、天の川が反射しているようにも思えた。そうだ、銀河鉄道は、白鳥座という北十字星から天の川を伝って南十字星まで伸びる鉄道なのだった。そう考えながら『銀河鉄道の夜』の物語を思い出し始めると、果たして栄浜で出会ったあの少女は賢治の妹の幻影などではなく、彼女自身の存在すら一瞬の幻だったのでないかと、思ってしまうのだ。

    『ユリイカ』 2017年8月臨時増刊号 第49巻第13号(通巻706号)
    「総特集*奈良美智の世界」