• 思い返してみれば、高校の頃の自分は美術の道に進むなんて考えてもみなかった。

    50年代の終り、僕は北国の地方都市に生まれた。保育園に通う頃に、両親は緩やかな丘の上に小さな平屋の一軒家を建てた。そこは家並みが途切れて草原が広がり始めるようなところだった。僕の記憶はそこから始まる。隣の家には羊がいて、遠くに小学校と街並みが見えた。小学校へは道を通らずに草原を突っ切って行くことができた。

    小学校1年の時、同級生のマナブ君とふたりで私鉄の終着駅まで行った。ちょうど台風が去った次の日で、小さな温泉町の増水している川と、流されかけて半壊した橋の姿を覚えている。さほど広くない町を歩き回った後、一番星が輝き始めた頃に帰りの電車に乗った。僕らはその車中でお節介なおばさんに捕まり、自分たちの降りるべき駅を通り越して大きな駅で降ろされた。警察を呼ばれ、心配で青い顔をした母親たちが迎えに来た。しかし、幸運にもお節介ではなかった親たちは、それ以降も行き先さえ告げれば自由な行動を許してくれた。そして小学校も高学年になれば、自転車でいろんなところへ行ったし、中学ではテントで寝ることも覚えた。共働きゆえの放任主義の元、僕は自由に出歩いていた。

    70年代の半ばには窓から学校も林檎畑も見えなくなり、いつの間にか建ち並らんだ家々に囲まれていた。かつての草原は跡形も無くなり、隣の家の羊もいつの間にか消えていた。第2次世界大戦の敗戦後、朝鮮戦争での特需から始まる日本の経済復興は、地方の風景も変えていった。そんな景色の移り変わりを、50年代に日本の地方都市に生まれた人はみな目にしていたと思う。生活は日に日に良くなっていき、家の中には少しずつ物が増えていった。

    60年代と70年代の風景はまったく違う。それは地方の丘の上の一軒家の窓の外に広がっていた風景の変容ではなく、世界という風景の見え方の大きな変化だ。ラジオが深夜放送で若者に海外の歌を届け、テレビは衛星による生中継で全世界へ月面着陸を伝えた。そして同じ頃、当初の予想に反して泥沼化していくベトナム戦争も、写真や映像によってリアルタイムで伝えられるようになる。アメリカでは若者を中心にベトナム戦争遂行への疑問が提示され、大きな反戦運動となっていく。それまでの合成甘味料のようなポップスはその色を失い、先の見えない世界をリアルに叫ぶ爆音でうねるようなロックサウンドに若者たちは熱狂する。反戦運動はロックを聴く者たちの年齢と意識を一気に押し上げた。それは、大音量を嫌っていた公民権運動世代をも覚醒させ、文学や映画、ストリートのサブカルチャーすべてが、それまでの価値観に対する大きなカウンターカルチャーとなってアメリカ社会に放出されていった。

    そんな70年代は、自分の10歳から20歳までの思春期に重なっていた。手作りでラジオを作るのが流行った小学校の高学年の頃、初めて作った鉱石ラジオのイヤホンを耳に付けたまま寝ていた僕は、深夜にふと目が覚めて深夜放送というものに出会った。パーソナリティからオーディエンスである若者に向けて届けられる音楽は、すぐに僕を虜にした。幸か不幸かアメリカの空軍基地が県内にはあって、そこの放送局からもいろんな歌を聴くことができた。

    75年のベトナム戦争の終焉と前後して、ロックは多様に進化し始める。東洋思想やクラシック音楽の影響、最新の電子楽器の使用と録音や再生技術の進歩、新しいソウルミュージックの台頭もあった。若者の音楽、サブカルチャーはアートに引き上げられ市民権を受けて大衆化、商業化していく。そんなポップアートからインテリたちは離れ始め、西洋のアートシーンでは観念的な作品が話題になっていくのだが、それは後から知ったことだ。その頃の自分はといえば、こずかいを貯めて買うようになったレコードのジャケットを見ながら、本場よりも10年遅れでポップアートに親しんでいたのだったが、時差があったのは音楽も同じだった。ラジオから流れる最新の曲の他に、気になったミュージシャンの過去のアルバムや、彼ら自身が影響を受けリスペクトしているものも探して聴いたり、商業主義とは無縁のアメリカの地方にあるマイナーレーベルからレコードを取り寄せたりもしていた。ルーツミュージックにも興味を持ち、黒人音楽だけではなく白人音楽のルーツを探してアメリカのアパラチア山中に移民当時から伝わる歌や、イギリスの民謡なども聴くようになっていた。

    イギリスやアイルランドの古い民謡や公民権運動時のフォークソング、ベトナム戦争時の反戦的なロックを聴き、当時の文学を読む少年、そんな自分が反権力社会的な少年に育っていったかと問われれば簡単にYESとは言えない。巨大な権力に敗れて日和っていく日本の若者たちや、あさま山荘事件のような過激派の末路を見ていた僕は、どちらかというと『反権力』というよりも『自由』を掲げ続けて、実社会から離脱して自らのコミュニティを作ろうとしていたヒッピー世代の残党に親しみを覚えていた。それが自分を内省的にして、平和を愛する文学好きの少年に育んでくれたと思っているのだけれど。

    さて、いつの間にかそこら辺のロック好きな大学生よりもオタクになってしまっていた自分は、高校生の時に一回りほど年上の大人たちと知り合いになる。彼らは地元の夏祭りであるネプタ祭りで、自作のネプタを出陣させる集団で『必殺ねぷた人』と名乗り、そのメンバーはジャズ喫茶やライブハウス、花屋さん等々、同年代の地元仲間で結成されていた。祭りの2、3週間ほど前から空き地に大きなテントを建ててネプタを作るのだけれども、いつの間にか僕はそこに出入りするようになっていた。夕方から深夜までネプタ作りの手伝いをして、その後のどんちゃん騒ぎにも連日連夜参加した。音楽の話は元より、自由さを忘れていない年上の先輩たちと話すのは面白かったし、そこに集う同じ街の似たような年頃の連中に会うのも楽しかった。祭り期間中ともなれば、県外から助っ人もやって来た。僕はそこでデビューして間もない友川カズキさんに会い、はみだし劇場の外波山文明さんに会い、たこ八郎さんにも会い、浅草でストリップ嬢をしているというジローさんにも会ったのだった。ライブハウスのオーナーと知り合いになったこともあって、ネプタ祭りが終わっても、いろんなライブを顔パスで観ることもできるようになっていたある日、こんなことを言われた「ガレージを改造してロック喫茶を作るんだけど、手伝わない?」。

    高校2年生の秋、僕は学校もそっちのけでロック喫茶を作っていた。内装の壁作りに、テーブル、椅子、カウンターまで一緒に作った。窓枠を作り、何度も失敗しながら切ったガラスをはめ込んだ。シャッターの絵もまかせられた。同じ頃、ライブハウスのステージ壁に掛ける大きな絵も描いた。擬人化されてギターを弾くカップルの猫の絵だった。僕は毎週のようにライブハウスに通い、家から徒歩5分にあったロック喫茶には毎日通った。ロック喫茶にはターンテーブルが2台置かれているDJブースがあって、毎晩そこで選曲してプレイした。常連となっていく音楽好きの大学生たちとも仲良くなって、彼らの文学や演劇、映画談義に耳を傾けた。そして僕は自慢するように、彼らの知らない音楽の話をしたのだった。

    放課後の社会勉強ではずば抜けて優等生だったと思うが、学校での勉強はイマイチで口ばかり達者な劣等生だった。それでも毎日が楽しくロック喫茶という学校で、僕はゆっくりと大人になっていく感じがしていた。そんなある日、常連の人達から絵が上手いからという理由で画集をプレゼントされる。『萬鉄五郎 / 熊谷守一』という国内作家を集めた美術全集の中の1冊だった。それは自分の本棚には無い種類のもので、詩集や小説と違って何か文字では表せない類の表現が本という形をとっていることが新鮮だった。文字の無いものをどう読むのか、それはずっと音楽を聴いてきた『耳』を『眼』にシフトすればよいだけだった。萬鉄五郎や熊谷守一という人の絵から、音楽を聴いて得られるような感情を享受できることはコロンブスの卵的な驚きだった。

    もちろん、そのような画家を知る以前から、レコードのジャケットを通して数人の画家や写真家の作品を目にしてはいたし、漫画雑誌ガロで出会った鈴木翁二や林静一、赤瀬川源平なんかの絵に惹かれてはいたのだけれど、たとえばキャンバスに描かれて独立したような絵を意識して観たことはなかったのだ。そして、地元の国立大学で教育美術を学んでいる学生から「奈良くんは絵が上手いんだから美大とかいけば」と何気なく言われても、そんな専門的な大学を自分が受けても良いのだ、というところまで考えが回らなかった自分がそこにいた。自分の暮らしの中で美術は明らかに遠い世界にあり、美大進学に関してまったく現実味を持つことができなかった。僕は同級生たちと同じように、名前くらい聞いたことがありそうなどっかの大学に潜り込めればいいやくらいに思っていた。

    そして高校3年生の夏休み、僕は東京にいた。大手進学予備校の文系コースの夏期講習に通っていた。たくさんの講習生を前にした講師の授業は退屈だったが、都会にいることが自分をウキウキさせていた。ライブやレコード屋に喫茶店巡り、やっぱり放課後が楽しかった。そんなある日、予備校前の道路脇に座って本を読んでいると、自分と似たような匂いを放っている講習生から声をかけられる。「ねぇ、講習の券買わない?」。それは『美大芸大進学コース』の、裸婦デッサンを主とした講習コースの受講票だった。僕はまず『裸婦』という文字に眼が泳いだ。そして、かつて「奈良くんは絵が上手い!」と言われたことや、小学校の時に「大人みたいに描くねぇ!」と先生に驚かれたことなどが、一瞬にして頭を駆け巡った。どうやら受講票を売りつけようとしている彼は、僕の恰好から美大受験の講習に来ていると判断したのだとも理解した。自分は絵が上手いと言われていたんだから、なんとかなる(=裸の女の人を見れる!)んじゃないかと思い、少し考えるフリをした後で僕は答えた。「いいよ」。

    服を脱いだ中年のモデルさんは、モデルと言ってもファッションモデルのような八頭身ではなく、そこいらへんにいるおばさんだった。それは17歳の少年を大きく幻滅させたけれども、それゆえに冷静に描写することを助けてくれた。周りを見渡すと、みんな上手いという感じはなく、中には明らかに場違いに思える人もいた。自分は案外と良い線いってるんじゃないか?と思えるくらいで、講師の先生からも「初めて見る顔だけど、普段はどこ(の予備校)に行ってるの?」と聞かれたくらいだ。先生は「高3?どこ受けるの?」「え、普通大学?美大受験しないの?もったいないよ~」と立て続けに言い、自分もつい「美大って、受けてもいいんですか?」と、トンチンカンに答えてしまった。

    ・・・なんだか、真面目なようで不真面目な文章になってきているけれども、この高校3年生の夏に、とりあえず美大を受験することが、普通大学を受験するより楽に合格できるのではないか?という甘い考えを自分に植え付けたことは間違いないはずだ。そして、美大を受けてみようと決心させたのだ。それは『アーチストになりたい!』という真剣な決意ではなく『なんだか楽しく学生生活を送れるんじゃないか』というバチあたりな発想だった。

    高3の冬、冬期講習を受けるためにまた上京した。今度は文系コースなんかではなく、美大芸大コースの実技講習だった。そこで初めて油絵を描き、木炭を使ってデッサンというものを経験した。夕方からは新宿のロック喫茶で、大音量の音の中で本を読んでいた。ネプタで知り合った劇団の人々が「東京に来たら顔を出せ」と言っていた新宿ゴールデン街の店には近寄らなかった。一度、店の前まで行ったのだけれど、中で壮絶な舌戦が繰り広げられていた。東京という巨大な街の中にいて、自分が蟻地獄に引き込まれて行く蟻のような感じがしていて、講習後はロック喫茶にばかり入りびたり一杯のコーヒーで何時間も粘っていた。それでも日中の講習は楽しく、絵を描くことはどんどん面白くなっていったし、裸婦デッサンでは初心者なのに褒められて、大学に行かないでずっとここにるのも楽しい気がしてきていた。今思えば、なんて馬鹿なんだろうということはわかるのだが、本当に楽しかったのだ。音楽好きな東京の女の娘とも知り合いになり、正月には「ひとりで過ごす元旦は寂しいんじゃない?うち来れば?」と、彼女の家に呼ばれて家族団らんの中でおせち料理をご馳走になり、すでにもう東京に住んで暮らしている気持ちになってしまった。

    そして受験。油絵初心者の自分は油絵科ではなく、いつも褒められていた裸婦デッサンが課題である大学の彫刻科を受験した。そして運よく合格したのだけれど、なぜか入学手続きをしなかった。放任主義の両親は、僕が受験した大学の名前さえ知らなかったし、浪人して普通大学を目指すものだと思っていた。東京から戻った自分は、以前と変わらず例のロック喫茶に通う日々に埋没していた。地元の大学生たちと話すことは依然として楽しかったし、人と音に囲まれ生きていくのもいいような気がしていたのだが、合格した大学への入学手続きの期限が切れた頃に彫刻科の先生から電話がかかってきたのだった。「美大に行く行かない、浪人するしない、どっちにしても一度会いに来なさい」と言われて、その先生の待つ大学を訪れるためにまた夜行列車に乗った。

    春休みの美術大学を見学した。彫刻科のアトリエでは休みにも関わらず数人の学生が制作していた。そこには美術予備校のアトリエには無い『自由』な空気があった。真剣に何かを追い求めて制作する美大生の姿は、僕にその道に進めと言っているように見えた。暖房も無く少し寒いくらいのアトリエから外に出ると、早春の日差しが暖かく降りそそいでいた。なんだか景色が以前よりも新鮮に見えて、僕は長い冬眠から覚めたような気分になっていた。

    自分は、忘れがたい素晴らしい絵に出会ったとか、ある芸術家の話に心打たれたとか、作ることが楽しくてしかたなかったとか、そのようなきっかけがあって今ここにいるわけではない。けれども、気が付けばずっと制作して生きている。制作の場では、昔聴いた曲から最新の曲までスピーカーから流れている。本棚には何度も読み返したものから真新しい本。この道に進むきっかけが何かあったわけではなく、いろいろな環境や出来事が時代の中で複雑に絡まり合って自分を歩かせてきたのだ。そして、その歩みは歳と共にゆっくりとしたものになっている気がする。岩山から湧き出た水が岩だらけの急流から、やがて川幅が広がり緩やかな流れになっていく川のようなものかもしれない。そこに流れる水は湧き出た地点から河口までずっと繋がっている。自分は道を歩いているのではなく、そのような川を流れている水のような気がしてくる。この世にはそのような川が無数に存在していて、その川たちの水が注ぎ込む海こそが芸術と呼ばれるものなのだろう。

    初めて裸婦デッサンをしたあの日から40年が経ち、17歳の高校生は57歳になった。日本人男性の平均寿命からすると、自分が大海に出るのはまだ当分先のようだ。

    奈良美智展「for better or worse 」 豊田市美術館 図録掲載
    奈良美智展実行員会 2017年 刊行